比嘉和子という名前をご存じでしょうか。
太平洋戦争末期から終戦後までの間に、サイパン島の北117キロに位置するアナタハン島で女性1人と男性32人が共同生活を送っていた事があったそうなのです。
その共同生活で、唯一の女性だったのが比嘉和子さんで、この記事では比嘉和子さんの人物像や後に「アナタハン事件」と呼ばれる事になった共同生活の実態について調べます。
「アナタハン事件」で有名に!比嘉和子とはどんな人物だった?
終戦直前の1945年から1950年にかけて、北マリアナ諸島にあるアナタハン島で女性1人と男性32人が共同生活を送った中で、ただ一人の女性だった比嘉和子さんについて書いていこうと思います。
この共同生活が終わり日本へ全員帰還した後、この共同生活の様子を「アナタハン事件」として報道各社が取り上げて報じられたという事です。
アナタハンブームと言われるほど、メディアはこの事件をセンセーショナルに報じ、比嘉和子さんは一躍有名人となりました。
「アナタハンの女王」比嘉和子とは?
ここでは「アナタハンの女王」と呼ばれた比嘉和子さんの略歴を書いて行きたいと思います。
年月日 | 年齢 | 出来事 |
1924年8月5日 | 0歳 | 沖縄県に生まれる |
1945年8月 | 20歳 | 32人の男性とアナタハン島で共同生活を始める |
1950年6月 | 25歳 | アメリカ船に救助されアナタハン島を脱出 |
1951年6月 | 26歳 | アナタハン島に残っていた男性全員投降 |
1953年4月 | 28歳 | 本人が主演した映画『アナタハン島の真相はこれだ!』が公開 |
1974年3月 | 49歳 | 脳腫瘍により死去 |
映画「東京島」のモチーフになった「アナタハンの女王事件」とは?
32人の男性とたった一人の女性が孤島で共同生活を送るという大変センセーショナルな事件「アナタハン事件」は映画や小説などのモチーフとして何度も利用されています。
一番最近に映画化されたのは2010年に木村多江さん主演の「東京島」で、桐野夏生さんの小説「東京島」が原作となっており、その「東京島」のモチーフが「アナタハンの女王事件」なのです。
時代背景が変わっても、大人数の男性とたった一人の女性という設定は大変インパクトがあり、いったい何が起きるのか、ハラハラ・ドキドキの物語ですね。
楽園?それとも地獄?孤島・アナタハン島の生活はどのようにして始まった?
太平洋戦争末期の昭和19年、軍用に徴用された数隻の漁船に乗っていた水兵や漁師が北マリアナ諸島でアメリカ軍の攻撃を受け沈没し、命からがら泳ぎついたのがアナタハン島でした。
アナタハン島にはヤシ林の経営していた南洋興発栽培の農園技師の男性とその部下の妻の比嘉和子さんや原住民が70名ほど暮らしていましたが、原住民は空襲避け島から徐々に出て行きました。
そしてアナタハン島に残ったのは、流れ着いた日本人と最初から島にいた農園技師の男性と比嘉和子さんだけになったのです。
終戦時はアメリカ軍から拡張器を使って日本が敗戦した事を伝えられましたが、誰一人として信じて投降する人はいませんでした。
女1対男32…比嘉和子は何故「アナタハンの女王」になったのか
島での食料はバナナや里芋、海で獲れる海産物、トカゲや蛇やねずみなどで、食べられるものは何でも食べていたそうです。
時折アメリカ軍が来ると必死に身を隠していましたが、空襲もなく徐々に食料に確保もできるようになり孤島の生活にも余裕ができてきました。
生命の危機を脱した頃彼らの生活に変化が見られ、たったひとりの女性・比嘉和子さんをめぐって男達が争いを起こすようになって行ったのです。
孤島の生活では怪我や病気がすぐに命取りになるため、事故や病気で死んだ者もいましたが、数人は和子さんを奪い合い殺人へと発展し死んだ事もありました。
7年間の生活が終焉…アナタハン島の日々からの解放
島では次第に男達の争いの元凶が和子さんだという雰囲気が高まり、和子さんは身の危険を感じるようになったといいます。
そして昭和25年6月何度か来ていたアメリカ軍の船がまたやって来た時、男性たちはいつものように身を隠しましたが和子さんだけは一人で出て行き救助されたのです。
翌年の6月、男性らの家族からの手紙やマッカーサーと昭和天皇が並んでいる写真が載っている新聞などが届けられ、ようやく終戦を信じた男性らはアメリカ軍に投降する事を決めたのでした。
このような形で7年間ににも及ぶ孤島の生活が終わり、最終的に日本へ無事に帰れた男性は19人だったという事です。
比嘉和子は2人の夫がいた?子供についても!
比嘉和子さんをめぐってたくさんの男性達が争いを起こしていましたが、実際に結婚していた夫について紹介したいと思います。
また比嘉和子さんに子供がいなかったのかも気になるところですので調べて行く予定です。
1人目の夫 比嘉正一
1人目の夫比嘉正一さんは、アナタハン島でコプラ栽培をしていた南洋興発の社員で和子さんが18歳の時に結婚しています。
比嘉正一さんは、パガン島に妹を迎えに行った時にアメリカ軍の攻撃の為島に戻れなくなりそのまま消息不明になってしまいました。
和子さんが死亡したと思い込んだ正一さんは、日本へ帰り違う女性と結婚していたという事です。
2人目の夫 比嘉菊一郎
2人目の夫の比嘉菊一郎さんは、比嘉正一さんの上司で正一さんが消息不明になってから和子さんと行動を共ににするようになり、自然と夫婦関係になっていったようです。
菊一郎さんはアナタハン島で亡くなっており、和子さん本人は食中毒だったと言っていますが和子さんをめぐる男性達の争いで殺された可能性もあるかもしれません。
比嘉和子に子供はいた?アナタハン島で妊娠しなかったのか?
比嘉和子さんは“アナタハン島では頼まれれば関係をもっていた”という事を話していたいたそうですが、アナタハン事件の最中に妊娠した事はなかったようです。
一人目の夫比嘉正一さんの子供をに妊娠していた時、空襲から逃げる最中に流産してしまいその後遺症で妊娠できなくなったという説もありました。
しかし36歳の時沖縄で2人の子供を連れた男性と再結婚しており、子供たちとの関係は良好な関係を築いていたようです。
アナタハン島脱出後の比嘉和子は?悲劇のヒロインのその後と晩年について
アナタハン島での共同生活から日本へ帰った比嘉和子さんは28歳になっていました。
消息不明だった一人目の夫は既に妻子をもっており、和子さんは一人で生計を立てていかなければならない状況でしたが、どのような生活を送っていたのでしょうか。
アナタハン島から帰還後、比嘉和子は女優になっていた!?
アナタハン島から帰った比嘉和子さんはしばらくは小料理やなどで働いて生計を立てていました。
世間ではアナタハン島事件の女王として和子さんの事を大々的取り上げていたため、和子さんの働いていたお店は大変な繁盛を見せたということです。
更に、和子さん自身が主演する映画の製作の話があり女優として映画「アナタハン島の眞相はこれだ!!」に出演しています。
女優からストリッパーへ転身?その後カフェを開業した?
比嘉和子さんは小料理店で働いた資金をもとにカフェの経営をおこなったようですが、「アナタハンの女王」や「女王蜂」などと言ってマスコミから揶揄され、結局カフェは辞めてしまいました。
その後は、東京で興行師の口車に乗せられてか、和子さんはストリップ劇場でストリッパーをしていた事もあったようです。
ようやく穏やかな人生を取り戻した…沖縄での晩年について
ストリップ劇場を辞めて再び沖縄に戻った比嘉和子さんは、2人の子供をもった男性と再婚をしています。
2人でたこ焼き屋を営み暮らしていたようで、子供たちとも本当の親子のように仲良くしていたということです。
「東京島」だけじゃない!「アナタハン女王事件」をモデルにした映画3選
戦後の日本で、センセーショナルに取り上げられ大変話題になった「アナタハン女王事件」はそれをモチーフにした作品がいくつもありました。
既に紹介した「東京島」の他にも、ハリウッド映画監督により制作された映画もあり、ここでは3つの映画を取り上げ紹介したいと思います。
その1. アナタハン(1953年)
アメリカのハリウッド映画の監督ジョセフ・フォン・スタンバーグが、「アナタハン島の女王事件」を新聞で知り日本の映画制作者に映画化を提案したことで映画化が決まった。
この作品では比嘉和子さんを「女王蜂」と表現し、複数の男性達とのラブストーリーを描いているが、極限状態での人間の生態を昆虫に例えて観察しているような意味合いがあったということです。
その2. アナタハン島の眞相はこれだ!!(1953年)
「アナタハン事件の眞相はこれだ!」は比嘉和子さんが主演となり映画化されたものです。
ストーりーが実際の「アナタハン事件」の共同生活より短く設定され、男達による和子さんの争奪選や殺し合いがメインで、生き残った男性もほんの一部となっておりB級猟奇的映画と言われています。
映画のヒットもなく、和子さんのギャラも約束の200万円の予定が5万円だったそうです。
その3. グラマ島の誘惑(1959年)
終戦直前、無能な宮家の兄弟と御月の武官と報道員や画家、詩人、慰安婦たちが内地への帰途の途中で船を撃沈され、南洋のグラマ島に漂着する。
男達3人は女たちを使って自給自足の生活を開始するが、愛欲のもつれ殺し合いなどが起こるストーリーである。
この映画は孤島での共同生活という点では同じですが、男性3人と女性9人という点では大きく異なっており起こる事件もまた少し違っているようです。
【徹底解説】比嘉和子とは?アナタハン事件や夫と子供の情報も!のまとめ
この記事で調べてきた比嘉和子さんは、終戦を知らずに北マリアナ諸島のアナタハン島で男性32人と共同生活を送りました。
たった一人の女性和子さんをめぐって男性達の争いが起こり、殺人まで起こってしまったという事です。
報道各社によって大変センセーショナルに取り上げられ、和子さんは「アナタハンの女王」「女王蜂」「毒婦」などと言われ故郷の沖縄でやっていたカフェを辞めたこともありました。
晩年は沖縄に戻り、2人の子連れの男性と再婚し穏やかに暮らしていたようです。