人は死んだらどうなるのか。
多くの人が一度は考えたことがあるのではないでしょうか。
死んだら自分の意識はどうなるのか、死後はどこに行くのか、死んだ人に会えるのか。
「死」にまつわる様々な疑問とその答えを綴りました。
内容が内容ですので、お好きな飲み物などをお手元に、寛ぎながらお付き合いくださると幸いです。
死んだら自分の意識はどうなる?疑問10点を解説!
「死」に関する疑問は昔から、常に存在します。
人はその答えを宗教や思想に見出そうとしてきました。
そのすべてをご紹介することはできませんが、あなたにとって「しっくりくる答え」は見つかるでしょうか。
疑問①死んだら自分の意識はどうなる?
死んだら自分の意識はどうなるのかという疑問に対する考え方はいくつかあります。
大まかに分けた2つの考え方をご紹介します。
死んでも意識は残る
死んで肉体が消滅しても、意識は残るという考え方です。
民間信仰、中でもスピリチュアル系といわれるものはこの考え方が主流ではないでしょうか。
死んでも自分という「個」は残るので、死を恐れる必要はなく、生いきている間に精神を高めようというような考え方が多く見られます。
死んだら無になる
死んだら「無」になる、つまり死んでしまえば何もなく、そこで終わりという考え方です。
死んで肉体の活動がなくなると、脳の神経伝達も行われなくなり、意識自体がなくなるので「無になる」という考えは、現実的、あるいは科学的な思考と言われることが多いです。
寝ている間も意識はありませんが、死んではいませんよね。
人間は寝ている間も脳が常に活動していて、夢を見たり、物音で起きたりすることができます。
つまり、日常での意識がない状態と、死における意識がない(なくなる)状態の違いは、脳が活動しているかどうかという点であるとも考えられます。
疑問②死んだら自分の記憶は?
上述した意識と似た疑問ですが、死んだら記憶はどうなるのでしょうか。
死後の記憶に関しても、二通りの考えがあるようです。
死んでも意識があるから記憶も続く
死んでも意識があるから、記憶も続く、という考え方です。
死後も個人としての自我を保つという考え方もあれば、現在の自我はなくなっても新しい人格に定
着するから続くとみなすことができる、という考え方など、様々な思想が存在します。
死んで無になれば記憶もなくなる
死んで無になれば記憶もなくなるという考え方です。
記憶も脳の活動のひとつで、その活動が止まれば記憶も途絶えるという考えから来ているのが主流ではないでしょうか。
例えとして、パソコンの電源を切る=脳の停止=死がよく挙げられます。
疑問③死んだら永遠に無なのか?
「死んだら無になる」という考えの人は、自分の死後は自己の肉体・精神は自己のものではなくなる、もしくは自己の手の及ぶものではなくなると考える人も少なくなく、自己でなくなった「もの」に関して極めて客観的である傾向にあります。
なので、そもそも死後の「無」がどうなるのかについても、「考えてもどうにかなるものでもない」と冷静な考え方を持つ人が多いように思われます。
しかし、そんな考えの人でも、親族や知人の霊前ではそこに故人がいるかのように手を合わせるということも珍しくありません。
故人を偲ぶと同時に、もし自分が死んでも悲しまないでくれ、という心境の表れなのかもしれません。
疑問④死んだらどこに行くのか?
「あの世」の概念は宗教や文化を問わず、存在します。
仏教では、死んであの世に行くと、初七日から七日ごとに生前の行いがどうであったかの裁きを受け、四十九日目の最後の審判で行先が決まるとされています。
審判によって決まる行先は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つあり、これらを六道と呼びます。
すべての生き物は六道を経て輪廻転生を繰り返しますが、善行を積むことでこの六道輪廻から抜け出して極楽浄土へ至ることで、悟りを開くことができると説いています。
また、此岸(この世)と彼岸(あの世)とを分けるとされる三途の川の概念は仏典に由来しますが、多分に民間信仰を含んでいます。
平安時代までは三途の川に橋があり、橋を渡るという考え方が一般的でしたが、その後は渡し舟に代わり、渡し守に六文銭を渡すことで向こう側に行けるという考え方が主流になりました。
三途の川には親に先立って亡くなった子供が、親の供養のために積石塚を積むという賽の河原があるとされていますが、こちらは仏教とは本来関係ない民間信仰です。
三途の川と同じような信仰も、ギリシャ神話、ヒンドゥー教の神話、エジプト神話、中国の民族伝承など、世界各地に存在します。
疑問⑤死後の世界はある?
死後の世界は多くの宗教や文化で存在するとされています。
現世とは別の「あの世」へ行く、あの世で裁きを受ける、神などの超越的存在がいるなどの共通点を多くふくむこともあります。
何のためにあの世へ行くのかは宗教によって違いますが、多くの宗教で根底に見えるのは、「死後に地獄などへ落ちないため、または死を後悔しないように、自己を磨き、今を精一杯生きなさい」という教えです。
それは宗教や信条に関係なく、いつの世も普遍的で、多くの人が目指した価値観であったからではないでしょうか。
疑問⑥死んだら死んだ人に会える?
死んだら、先に死んだ人に会えるのかどうかは、死後に人がどうなるのかという考え方によって変わってくると言えるでしょう。
先祖など死んだ人に会えると考える人もいれば、早く生まれ変わった場合には、もうあの世にはいないから会えないとする人、そもそも死後の世界がないから会えない、という考え方まで様々です。
霊感がある方はともかく、この世で死んだ人には会えません。
死ぬのは怖いけど、もし知ってる人に会えるのなら…と思えば死に立ち向かう勇気が出る、という捉え方もありなのではないでしょうか。
>>死んだら死んだ人に会える?生きながら死んだ人に会える方法
疑問⑦死んだら生まれ変わる?何年で?
「生まれ変わり」を研究しているアメリカの医学博士であり精神科医でもあるジム・タッカー博士は、生まれ変わりについてまとめた論文を2008年に学術雑誌に投稿しています。
それによると、生まれ変わった、つまり「前世の記憶を持っている」人は、2~6歳頃に前世の記憶を語り始め、その内の70%が変死など自然死以外で死んでおり、前世で死んだときの年齢の中央値は28歳という結果が出ています。
また、死んでから生まれ変わるまでの期間は16か月で、その間の記憶もあったそうです。
生まれ変わりの実例と言われている人物は世界中に多数存在します。
アメリカに住むジェームス・レイニンガーくんは4歳の頃から、自分は第二次世界大戦時にアメリカ空軍のパイロットとして硫黄島で戦い、戦死したと言うようになります。
ジェームスくんは幼い子供が知っているはずのない、戦闘機についての詳細な知識を持っていました。
ある日、家族でドキュメンタリー作品を見ているときに、番組内で日本の三式戦闘機「飛燕」を誤って「ゼロ戦」と紹介されると、ジェームス君は「あれはゼロではなくトニーだよ」と言ってのけます。
トニーは当時アメリカを含む連合軍が使っていた「飛燕」のコードネームでした。
ジェームスくんが生まれる前に使用されていたゼロ戦と飛燕の違いを指摘し、さらに飛燕のコードネームまで言い当てたのです。
また、前世の名前はジェームズ・ヒューストンで、護衛空母ナトマ・ベイから硫黄島に向けて飛び立ったと話しており、不思議に思った両親が調べると、実際にジェームズ・ヒューストンという21歳の青年が硫黄島で日本軍に撃墜され死亡していたことが判明しました。
ジェームスくんの家族は戦闘機の知識はなく、ナトマ・ベイの名前すら知りませんでした。
このような話は昔から多数報告されており、生まれ変わりがあることの証左と言われています。
一方で、現在の科学ではこれらが本当に生まれ変わりなのか、あるいは生まれ変わりではないのか、どちらも証明ができず、科学的な視点から語ることが難しいとされています。
疑問⑧魂の重さは21g?
アメリカの医師、ダンカン・マクドゥーガルは人間が死ぬ際に体重の変化を測定することで、魂の重量を計測しようと試みた実験で知られています。
彼は6人の患者と15匹の犬を用い、死んだときに体重が変化するのかという実験を行いました。
その結果、人間が死んだ瞬間に、数グラム~40グラムの重量の喪失が確認されました。
この重量に、呼気に含まれる水分や汗の蒸発は含まれておらず、また、犬では何の変化も見られませんでした。
1907年にこのことが心霊現象研究協会の雑誌や医学雑誌に掲載されると、「人間の魂の重さは21gである」という説が広まりました。
この21gというのは6人の患者の平均ではなく、一人目の患者で計測された重量です。
しかし、計測方法が杜撰であることやサンプル数が少なすぎること、「死の瞬間」の定義が曖昧なまま測定が行われたなどの点から、科学的な信憑性はないとされています。
ですが、魂に重さがあるという着眼点はなかなか面白いのではないでしょうか。
仮に魂が21gだとして、それを軽いと思うでしょうか?
それとも、神秘的な重さだと感じるでしょうか?
疑問⑨なぜ死ぬのが怖いのか?
死ぬことを怖いと思う理由はいくつか考えられます。
ひとつは、死とはすべての人に必ず訪れるものだからです。
死がいつ訪れるのか、あらかじめ知っておくことはできず、数十年先か、数日後か、もしかしたら次の瞬間に突然死ぬかもしれない、というのは拭い去ることのできない恐怖として心に植えつけられることでしょう。
もうひとつは、人は「未知」のものに恐怖を覚える生き物だからです。
死ぬ前に死が実際どういうものであるか、知ることは不可能です。
臨死体験をした人の話も、蘇生したから語ることができたのであって、本当に死んだ人の話を聞くことはできません。
ここで例え話を一つ。
あなたは暗く人通りのない夜道を友人と二人で歩いています。
薄気味悪いなと思っていると、友人が「実は、ここ幽霊が出るってうわさなんだよね…」と話しだし、最近別の友人が遭遇した心霊現象などをひとしきり話してから、いきなり明るい調子でこう言います。
「なんてね、嘘だよ。怖がるかと思って、いま考えた話さ」
「なーんだ」
ついさっきまで怖がっていた話が、「ホラ話」だと分かった瞬間に恐怖心がなくなるのではないでしょうか。
本当に嘘なのか、ここで心霊現象があったのかどうかなどは不明のままでも、自分の中で未知のものであった幽霊話に「”ホラ話”という名前」がついたことで、心の中で落としどころが見つかり、恐怖心が薄まったり消えたりするのではないでしょうか。
心霊系の話に限らず、無意識的に未知のものに対して警戒心や恐怖心を覚えるのはよくあることで、生物が生き残るために身に付けた危機管理意識だとする説もあります。
疑問⑩臨死体験とは?
臨死体験とは、心肺停止状態の人が体験した不思議な体験や光景のことです。
心肺停止から蘇生した人のうち、4~18%の人が臨死体験をしたという報告もあり、医療技術の発達によって蘇生率が上昇していることから、臨死体験をした人も増加傾向にあります。
臨死体験がどんなものだったかは個人差があるものの、共通点やパターンも存在します。
- 病室で心肺停止の状態の自分の姿や周囲の人間が見えた
- あたたかい、安らぐような光に包まれた
- 光や花に満ちた空間へ行った
- 亡くなった家族や友人に会った
- 今までの人生が走馬灯のように見えた
臨死体験は宗教や国を問わず報告されており、臨死体験をした日本の有名人にはGacktさん、ビートたけしさん、加山雄三さんらがいます。
死を受け入れられなかったキューブラー=ロス
古今東西、人は死の恐怖を克服し、死に立ち向かい、受け入れようとしてきました。
有名なのがアメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー=ロスです。
彼女は死に瀕した患者に「死を受容し、自分自身を愛すること」を説き、死の恐怖に怯える患者に長年寄り添いました。
しかし、自身が脳梗塞で寝たきりの状態になり、インタビューでの「苦しむ患者を救ってきたのに、なぜ自分を救えないのですか?」という問いにこう答えています。
いい質問ね。(中略)
今の自分に満足なんて、そんなフリはできないわ…。
自分でお茶を淹れることさえできないのよ。
最低の毎日だわ。
この状態をバラ色だなんて、言えるわけがない。
彼女は病院で働き始めて、死にゆく患者への病院の態度に愕然とし、患者を救うため、死について研究を始めました。
死に関する著作は20を超え、「キューブラー=ロスモデル」とよばれる死の受容プロセスを提唱し、その先駆的な業績が認められています。
そんな人物でも、自らが死の淵に立つと、今まで自分が説いてきた考えを否定するに至ったのです。
これはキューブラー=ロスに限った話ではなく、夏目漱石や詩人・ゲーテ、哲学者・ヴォルテールなど、同様のエピソードはいくらでも出てきます。
他人の死と自身の死は同じではない。
上述した人物は皆、そんなことは知っていたでしょう。
それでもなお、いざ自身が死にゆくと悟ったとき、冷静ではいられないのが人間なのかもしれません。
死んだら自分の意識はどうなる?世界の死生観を紹介
死んだら自分の意識はどうなるのか?
ここからは、宗教的な観念を交えながら「死」について考えていきましょう。
日本と世界の死生観をご紹介します。
死生観①宗教上の死生観
宗教の死生観というのは意外にも似通っている部分が多くあります。
死生観という観点から比較すると、いくつかのタイプに分けることができます。
仏教、ヒンドゥー教、バラモン教
古代宗教であるバラモン教の死生観には「輪廻」があり、人間は動物も含めた生き物に生まれ変わるとされています。
この輪廻の思想は古代インドで「業」の思想と結びつき、高度に理論化され、仏教やヒンドゥー教の思想に継承されています。
前述した輪廻転生とほぼ同じ内容であることから、バラモン教の影響が覗えます。
また、インド起源の宗教において、肉体は霊魂の容れ物でしかないとされるため、遺体は火葬されます。
古代中国、エジプト
中国では、死後も生前と同様の生活が続くという考えが伝統的にあります。
秦の始皇帝の陵墓には死後も王を守るための、実物大の兵士の模型が副葬されています。
古代エジプトにおいては、死は新たな人生への始まりとされ、セトに殺され、イシスによって蘇った神・オシリスのように、ファラオ(王)もまた復活できると考えられていました。
そして死後の世界で生前と同じように暮らすには、肉体が必須とされ、肉体を維持するためにミイラ化の技術が生まれました。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、世界の終末に最後の審判を受ける際に、善人も悪人も復活し、審判によって永遠の命を与えられる者と地獄へ堕ちる者とに分けられるとされています。
復活には肉体が必要とされるため、本来は土葬であり、火葬は禁忌となっています。
魔女や異端者が火刑に処されたのは、火刑が破門や斬首などの死刑以上の極刑であり、屈辱であったためです。
現在は病気の蔓延や、土地の圧迫といった問題から火葬化が進んでいます。
死生観②哲学の死生観
古代ギリシアの哲学者プラトンは、善人、特に禁欲を重んじた哲学者の魂は「幸福者の島」へ行き、悪政や放埓に塗れた権力者は奈落へ落ち、その死者の魂を選別するのはギリシア神話のミノスらであるという話を残しています。
その後の哲学においても死後の世界や超越的存在への信仰は、中世のスコラ哲学などを通って現代まで続いています。
死生観③日本の死生観
日本古来の信仰である神道の「八百万の神」は、読んで字の如く、800万(数えきれない程)の神が存在するという思想があります。
無機物である岩に注連縄をして祀っている点から、アニミズムとの共通点も指摘されています。
日本神話における黄泉の国(あの世)では、死の穢れという意識はあっても、そこに善悪といった教条的・道徳的価値観は伴っていませんでした。
平安時代になり、武士が台頭すると、死と隣り合わせの職業ゆえか、武士独自の死生観が形成されていきました。
これは無常観とも表され、命に執着することなく、儚い世を精一杯生きようではないか、というような思想が辞世の句などに強く見て取れます。
「侘び寂び」の価値観の中にも、無常の観念が存在し、侘び寂びは美学であると同時に死生観でもありました。
江戸時代になると町人文化が花開き、「浮世」という言葉がよく使われるようになります。
浮世は元は「憂世」と書き、否定的な意味合いを持っていましたが、江戸時代に入り、「儚いから厭う」から転じて「どうせ儚いのなら、刹那の今を楽しく過ごそうではないか」という意味で使われるようになりました。
文学で使用される「浮世」には男女の仲といった意味もあり、この延長線上に「心中」の観念があるとも言われています。
神道や土着信仰に仏教を始めとする海外からの宗教が入り、時代の変化と共に新しい価値観が生まれ、結びつき、淘汰され、根付いて行ったものが現在の「日本人の死生観」と言えるでしょう。
とはいえ、宗教的な思想を持ち併せつつも積極的に信仰はしない「無宗教」と称する人や、キリスト教をはじめとする、古来からの日本の宗教観とは異なる宗教を信仰する人も多数います。
そんな日本人の死生観を端的に説明するのは、日本人でも難しいのではないでしょうか。
あるいは、何か共通点を見出すことも可能なうえで、それぞれが独自の死生観を抱えることこそが、殊に現代における日本人の死生観なのかもしれません。
死に対する疑問と死生観のまとめ
少々重たい話だったかと思いますが、いかがでしたでしょうか。
死んだらどうなるのか、どこへ行くのか、死とは何なのか。
有史以来、人間が考え続け、未だに明確な答えの出ない問いに、「しっくりくる答え」は見つけられたでしょうか。
死への理解を深めるもよし、そして、割り切って浮世を楽しむのもまた、人間が繰り返してきた営みの一つなのかもしれません。
古来から脈々と説かれてきた、死に至るまでに今を精一杯生きよという教えのように。