【写真あり】三菱重工爆破事件がグロイ!犯人の大道寺あや子は逃亡中?!

三菱重工爆破事件未分類

三菱重工爆破事件は1974年に起こりました。

我が国で初めて発生した大規模な爆弾テロ事件として知られています。

犯人たちはどのような意図で、三菱重工業本社ビルを爆破したのでしょうか。

犯人のその後はどうなったのでしょうか。

三菱重爆破事件の概要をまとめました。

【グロ】三菱重工爆破事件は爆破テロ事件?概要は?

三菱重工爆破事件は1974年8月30日、東京・丸の内にある三菱重工業本社ビルが爆破され多くの犠牲者を出した爆破テロ事件です。

この事件をきっかけに連続企業爆破事件が相次ぎました。

三菱重工爆破事件について詳しくご紹介します。

三菱重工爆破事件の背景

1970年代の日本は高度成長期でした。

1970年には「人類の進歩と調和」をテーマにかかげた大阪万博(正式には日本万国博覧会 EXPO’70)が開かれ、発展の真っ只中でした。

1960年代に活発だった学生運動が下火となるなか、武装闘争をもって社会の変革をめざすグループが出てきます。

三菱重工爆破事件の概要

1970年代に現れた過激派左翼集団のひとつである東アジア反日武装戦線は、アジアに対する日本の侵略と植民地支配の歴史を批判的に捉えていました。

日本が行った戦争は「侵略戦争」であり、日本政府は「完全な悪」であると考えていたのです。

1971年には熱海の殉国七士の碑などが東アジア反日武装戦線によって爆破されました。

殉国七士の碑は侵略の象徴として爆破され、その後軍需関連の企業も次々に被害に遭います。

戦前・戦中に日本の重工業を支えた三菱重工業は、彼らにとって帝国主義を支えた憎むべき相手だったのです。

東アジア半日武装戦線は1974年8月30日、東京・丸の内にある三菱重工業本社ビルに爆弾を仕掛けました。

爆破3分前に爆破予告があった?!

三菱重工爆破事件の概要は以下の通りです。

1974年8月30日午後0時25分、実行犯4人が丸の内にある三菱重工業本社ビルに時限爆弾を仕掛けます。

本社ビルは地下4階、地上9階建ての当時としては大きなビルでした。

ちょうど昼休みの時間帯で、エントランス付近には多くのサラリーマンやOLの姿がありました。

爆弾が仕掛けられた場所は、1階入り口のフラワーポットの脇でした。

本社ビルだけでなく、道の反対側にある三菱電機ビルも爆破する意図があったためです。

午後0時42分頃、三菱重工ビルの電話交換手に電話がかかってきました。

「本社前の道路に、時限爆弾をふたつ仕掛けた。付近のものは直ちに避難するように。これは冗談ではない」

という内容でした。

爆破予告の電話はこの日だけでなく、前日の8月29日にも同じ内容の電話がかかってきており、いたずら電話と判断していました。

しかしこの時は、3回続けて電話がかかってきたことに加え、電話の相手の男が「冗談ではない」ということを強く強調していたため、電話交換手は上司にこのことを報告しに行くことにしました。

3回目の電話から3分後の直後の午後0時45分、報告が伝わる前に時限爆弾が作動しました。

爆発の威力がやばい!犠牲者数が多すぎる?!

爆発により、三菱重工本社ビルの1階部分は瞬時に大破しました。

エントランスにいた多くの人たちは爆風に巻き込まれました。

社内はもちろん、表通りにいた通行人も巻き込まれてしまったそうです。

爆弾の近くにいた人の体は木っ端微塵に吹き飛んでしまいました。

三菱重工本社ビルの窓ガラスは9階まですべて粉々に割れたほか、道向いの三菱電機ビルや丸ビルなど近隣のビルの窓ガラスも割れたといいます。

爆発により、道路に停車していた車両や街路樹も吹き飛ばされました。

この時の爆発音は丸の内から30キロほど離れた新宿でも聞こえたんだとか。

爆弾の威力の強さを物語っています。

三菱重工爆破事件の犠牲者は死者8人、重軽傷385人です。

亡くなった8人のうち5人は即死でした。

被害が予想以上であった理由とは?

このとき仕掛けられた爆弾の総量は約40キロで、爆心地には直径30センチ、深さ10センチの穴が開きました。

使われた爆弾は、軍事用の列車爆破用爆弾を改造したものでした。

爆破事件を起こした東アジア半武装戦線も丸の内全体を巻き込むような爆発になることは予想していませんでした。

予想以上の被害となった理由として以下の2つが挙げられます。

  • 軍事用の列車爆破用爆弾を転用したため
  • 爆破予告がいたずらと捉えられてしまったため

です。

犯人である東アジア反日武装戦線は繰り返し予告の電話をかけました。

犯人としては、予告をすることで爆弾の設置を周知したかったのでしょうが、逆にいたずら電話と判断されてしまうことになりました。

そのため避難措置は取られず、多くの人が爆発に巻き込まれてしまう結果になりました。

東アジア反日武装戦線の犯行声明が怖すぎる?

白昼の無差別テロ事件である三菱重工爆破事件。

犯行後、「東アジア反日武装戦線狼」などの名義で新聞社に声明文が送られました。

声明文によると、この事件は「ダイヤモンド作戦」と名付けられていたようです。

(引用元:Twitter)

この声明文により、爆弾をしかけたのが東アジア反日武装戦線であることがわかりました。

東アジア反日武装戦線の中にはいくつかのグループが存在していました。

三菱重工爆破事件を起こしたのは「狼」と呼ばれるグループです。

狼は、資本家に苦しめられている被抑圧民衆を絶滅したニホンオオカミになぞらえて、開放することを目的に活動していました。

一部マスコミの間では、小池一夫原作の時代劇劇画「子連れ狼」の影響が見られると指摘されています。

声明文の内容は、三菱重工爆破事件を正当化する内容でした。

彼らの言い分によれば、三菱重工の社員や関係者は、国と結託して悪事を働いている「犯罪企業」であるため殺しても構わないというのです。

暴力によって革命を起こすという考え方自体、恐ろしいものですが、企業に務める一般人を「殺しても構わない」と言い切ってしまうのは非人道的過ぎます。

三菱重工爆破事件の遺体が無惨すぎる?

三菱重工爆破事件を語る上で、犠牲者がいかに惨い最期を遂げたのかは避けて通れません。

この事件のグロさ、悲惨さをお伝えします。

ネット上には、三菱重工爆破事件当時の画像や動画が多数アップロードされています。

(引用元:Twitter)

昼下がりの平和なオフィス街が、一瞬にして地獄絵図となった様子が伺えます。

(引用元:Twitter)

窓ガラスが吹き飛び、地面に散乱している様子が見られます。

 

(引用元:Twitter)

(引用元:Twitter)

事件の生々しさを伝えるには十分ですね。

当時は今ほど規制が厳しくなかったため、テレビニュースでも頭から血を流した人や手足が吹っ飛んでしまった人が映し出されました。

運悪く、三菱重工本社ビルの前の通りにいた人の多くは、爆風で割れた窓ガラスにより負傷しました。

地上9階分の窓ガラスのかけらがナイフのように降り注いだのです。

その総重量は、40トンと言われています。

三菱重工爆破事件の犯人のその後と現在は?

三菱重工爆破事件が起きる前、犯人たちは別の計画を練っていました

三菱重工爆破事件までの経緯と、事件後犯人たちがどうなったのかをまとめました。

昭和天皇のお召列車の爆破も計画?

1972年、東アジア反日武装戦線を名乗る大道寺将司らは本格的な武装闘争の準備を始めます。

第二次世界大戦によって「幾千万人ものアジア人民を圧殺した、この大犯罪人を処刑することは、反日思想の当然の帰結である」と考え、昭和天皇の暗殺計画が企てられます。

この作戦は虹作戦と名付けられました。

毎年8月14日は那須御用邸から皇居にお召し列車で帰還することを調べ上げ、埼玉県と東京都の境に架かる東北本線の荒川橋梁に爆弾を設置することを決めました。

前々日から爆弾を設置するために作業を行っていましたが、爆破計画前夜不審な人物が橋の周りに現れたことから計画を断念します。

この虹作戦のために製造されていた爆薬「セジット」こそが、後に三菱重工爆破事件に使用された爆薬です。

本件で列車・橋梁爆破に使うはずだった強力な爆弾です。

それを転用して市街地に設置したため、三菱重工爆破事件では大規模な爆発が起こってしまいました。

虹作戦が失敗に終わった翌日、在日韓国人の朝鮮総連系団体活動家・文世光が朴正煕大統領暗殺を企てた文世光事件を起こしています。

彼らは虹作戦を断念したことを不甲斐なく感じ、「文世光の闘争に呼応するため」として、三菱重工爆破事件を企てるに至りました。

【事件後】メンバーが一斉に逮捕された?

事件後、公安警察によりすぐに捜査が始まりました。

この時代は、60年安保、70年安保、連合赤軍事件など過激派左翼団体による事件が多く発生していた時期です。

当初、三菱重工爆破事件も連合赤軍の仕業ではないかと言われていました。

しかし9月23日付で声明文が出され、過激派左翼団体である東アジア反日武装戦線の狼というグループが犯人であるとわかりました。

声明文が出るまで時間がかかったのは、予想以上に多くの一般人を巻き込んでしまったため、どういう表現で自分たちの行為を正当化しようか狼内部で揉めたためと言われています。

東アジア反日武装戦線のメンバーとして最初に疑われたのは、アイヌ革命を唱えていた太田竜です。

太田竜の潔白が証明されますが、思想に繋がりのある人物を辿っていくうちにメンバーの芋づる式に狼のメンバーが判明しました。

1975年5月19日、東アジア反日武装戦線狼の主要メンバー7名が斉に逮捕されました。

逮捕まで時間がかかったのは、犯人たちが普段は会社員などとして市民に紛れて潜伏していたため、捜査が難航したそうです。

逮捕されたのは以下の7名です。

  • 大道寺将司
  • 大道寺あや子
  • 浴田由紀子
  • 佐々木規夫
  • 齋藤和
  • 桐島聡
  • 宇賀神寿一

です。

協力者の看護学生1名も一緒に逮捕されました。

大道寺将司とあや子は夫婦でした。

【死刑判決確定】20年も執行されなかった?

逮捕されたメンバーのうち、佐々木規夫と大道寺あや子、浴田由紀子はクアラルンプール事件やダッカ日航機ハイジャック事件による超法規的措置で釈放されました。

そのためリーダー格の大道寺将司と益永利明の裁判が進められました。

裁判で彼らは「爆弾の破壊力を予想できなかった。また予告電話をかけており、殺意は無かった」と殺人罪の無罪を主張しましたが認められませんでした。

1987年3月24日最高裁で大道寺将司と益永利明の死刑判決が確定しました。

その後、大道寺将司は2017年5月24日に東京拘置所で病死しています。

68歳でした。

そして益永利明は今も確定死刑囚として東京拘置所収監されています。

驚くべきことに、判決から20年経っても死刑が執行されていなかったのです。

その理由は共犯である佐々木則夫と大道寺あや子が国外逃亡しているからではないかといわれています。

【現在】佐々木規夫と大道寺あや子は国際指名手配中!

他のメンバーはその後、どうなったのでしょうか。

大道寺将司や益永利明の逮捕後、宇賀神寿一と桐島聡が全国に指名手配されました。

1982年7月、逃亡していた宇賀神寿一が逮捕され、1990年に懲役18年が確定しました。

1987年3月には黒川芳正に無期懲役、協力者に懲役8年が確定します。

さらに、1995年にはルーマニアで浴田由紀子が逮捕され、2004年に懲役20年が確定しています。

すでに刑期を終え、宇賀神寿一は2003年、浴田由紀子は2017年に出所していますが、メンバーのうち国外逃亡を続けている佐々木規夫と大道寺あや子の裁判は公判停止になっています。

現在もふたりは国際指名手配中です。

また桐島聡も全国指名手配中ですが、未だ捕まっていません。

東アジア反日武装戦線は同様の事件を9件も?!模倣犯も登場?!

東アジア反日武装戦線それぞれのグループが実行犯となり、三菱重工爆破事件の他にも企業の社屋や研究所を爆破する事件を9件も起こしています。

  • 三菱重工爆破事件(1974年8月30日):犠牲者は8名、376人が重軽傷。犯人は狼。
  • 三井物産爆破事件(1974年10月14日) :16人が重軽傷。犯人は大地の牙。
  • 帝人中央研究所爆破事件(1974年11月25日)犯人は狼。
  • 大成建設爆破事件(1974年12月10日):9人が重軽傷。犯人は大地の牙。
  • 鹿島建設爆破事件(1974年12月23日):犯人はさそり。
  • 間組爆破事件(1975年2月28日):5人が負傷した3班合同の作戦。本社と工場をそれぞれ爆破。
  • オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件(1975年4月19日):犯人は大地の牙。
  • 間組爆破事件(1975年4月28日):1人が重傷。さそりが犯人。作業所のひとつを爆破。
  • 間組爆破事件(1975年5月4日):さそりが犯人。工事現場を爆破。

狙われたのは三菱物産や帝人、大成建設などの旧財閥系企業や大手ゼネコンでした。

いずれも、日本国家に協力してアジア侵略に加担したとされ、東アジア反日武装連合に狙われています。

犯人が逮捕されるまでの1年間のうちに立て続けに爆発が起こっており、日本国民は「いつ、どこで、何が爆発するか分からない」という恐怖に晒されることになりました。

三井物産爆破事件


三井物産爆破事件は1974年10月14日に東京都港区で発生しました。

標的となった三井物産は、かつての三井財閥の中核企業です。

先に爆破事件の標的となった三菱重工業などとともに、戦前の日本を経済的に支えていた旧財閥系の企業でした。

東アジア反日武装戦線・狼は、三菱重工爆破事件で想定外の死傷者を出してしまったことでグループ内が混乱していました。

今回は齋藤和が率いる「大地の牙」が新たに東アジア反日武装戦線に参加し、狼の代わりに実行班となります。

大地の牙は三井物産の本社屋である物産館の爆破を計画しました。

10月14日午後1時過ぎ、新橋にあった物産館3階の電算機室が爆破され、16人が負傷しました。

犯人たちは三菱重工爆破事件の教訓から、20分前に犯行予告の電話をしています。

爆弾の火薬の量を減らしたこと、三井物産の物産館が重厚な建物だったことから被害は三菱重工爆破事件よりは小さくなりました。

帝人中央研究所爆破事件

帝人中央研究所爆破事件は1974年11月25日、東京都日野市で発生しています。

この事件の実行犯は狼でした。

大地の牙が三井物産爆破事件を成功させたことにより、前に進むしかないと爆弾逃走継続の覚悟を決めています。

標的となった帝人は、三菱重工業や三井物産のような大財閥系の企業ではありません。

しかし、多角的経営や海外進出に積極的な様子が「経済的侵略行為」であるとされ、テロの標的となりました。

11月25日午前3時、東京都日野市にある帝人中央研究所の配電盤室が消火器爆弾により爆破されました。

帝人本社を爆破する予定でしたが、先に2件の爆発事件が起きていたため警戒が強まっており、警察の意表をつくために研究所を爆破しました。

爆破による人的被害はありませんでした。

大成建設爆破事件

大成建設爆破事件は1974年12月10日に東京都中央区で発生しました。

大地の牙は、当初はホテルオークラの敷地内にある大倉集古館を爆破する予定でしたが、大成建設本社に変更しています。

大倉集古館は大倉財閥が運営する私立の美術館です。

大倉財閥は軍需関係で成長したため「死の商人」の異名をもっていました。

大成建設は、大倉財閥系の企業であり日本帝国主義の侵略の一端とされ標的となりました。

1974年12月10日午前11時、大成建設本社ビルの1階駐車場が爆破されます。

歳末特別警戒実施中であり、警戒態勢がしかれる中での出来事に警察関係者は大きなショックを受けたそうです。

爆発により、警視庁築地警察署員や大成建設社員の9人が負傷しています。

模倣犯も現れた?目的はいたずらや金銭要求

東アジア反日武装戦線の連続企業爆破事件の影響を受け、模倣犯も現れました。

1970年代後半以降には、北海道庁爆破事件や神社本庁爆破事件といったテロ事件が多発します。

これらは東アジア反日武装戦線の同調者や後継者を称する集団によるものでしたが、反日主義を貫く集団とは異なる犯行目的を持った事件も跡を絶ちません。

  • 一斉逮捕前の1975年3月、東京都立川市で、小学4年生がいたずらで110番に犯罪予告
  • 1982年10月29日、東京南部小包集中局の集配所で小包に紛れていた時限式消火器爆弾が爆発(遺留物から「反日武装」の文字が発見されたが犯人の特定には至らず)
  • 1985年3月末に国鉄横浜駅近くの複数のスーパーマーケットに「プラスチック爆弾で店を爆破する」といった内容の脅迫状が届く(内容は金銭を要求するもの。中学3年生が現行犯逮捕された)
いずれも大きな被害は出ていませんが、東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件を警戒していた人々にとっては心中穏やかでない事件ばかりです。
1985年のスーパーへの脅迫状が送られた事件では図書館で知った東アジア反日武装戦線の手口を模倣した、という証言が得られています。

三菱重工爆破事件を始めとする連続企業爆破事件が社会に及ぼした影響の大きさを物語っています。

【写真あり】三菱重工爆破事件がグロイ!犯人の大道寺あや子は逃亡中?!まとめ

三菱重工爆破事件の概要をお伝えしました。

反日主義の過激派集団による犯行であり、連続企業爆破事件のきっかけとなる事件であることがわかりました。

一連の事件で狙われた軍事的にも利用された財閥系企業でしたが、三菱重工爆破事件は多くの通行人や関係ない人を巻き込んだ無差別テロ事件となってしまいました。

犯人たちの一部は現在も逃走中であり、指名手配されています。