軽妙な演劇で、笑いと涙を誘わせる吉本新喜劇。
ドタバタな内容を中心とした喜劇は、大きな人気の理由の1つといえるでしょう。
長い歴史を刻んでいるため、すでに鬼籍に入った人も少なくありません。
そこで今回は吉本新喜劇で亡くなった人の中で主力メンバーだった17人を紹介します。
【2024最新】吉本新喜劇で亡くなった人一覧
これから紹介する人たちは、吉本新喜劇でも大御所といわれた芸人さん揃いですが、その人生の道のりはどんなものだったのでしょうか?
亡くなった人①桑原和男
おばあちゃん役でおなじみの桑原和男さんは、吉本新喜劇でも最古参のメンバーでレジェンドといわれています。
男性芸人でおばあさんをやらせたら「ばってん荒川さん」と双璧をなすと評判の芸人さんでした。
桑原和男さんは1969年に吉本新喜劇の座長に就任。
その後は後輩に道を譲るために座長ではなく、専科として吉本新喜劇を支えてきました。
82歳のときに体調不良のため一時休養しますが2019年の吉本新喜劇60周年記念公演で復帰。
2020年10月「よしもと大笑い祭り」が最後の舞台となりました。
しかし、2022年に車椅子でなんばグランド花月を訪れ、観覧席で後輩たちを見守っていたようです。
死因は老衰とされており、87歳のときに亡くなりました。
亡くなった人②中山美保
ミポリンの愛称で親しまれた吉本新喜劇のマドンナ・中山美保さん。
1967年に吉本新喜劇でデビューし、女学生や母親役として活躍していました。
女性役にも関わらず大股歩きをして他の演者から「足、足、足!」と注意されていましたね。
中山美保さんは2009年ごろから体調を崩しており、闘病生活を送っています。
病名は指定難病の1つとも言われている再生不良性貧血です。
血液中にある白血球・赤血球・血小板が減少する病気で、さまざまな臓器で酸素が欠乏します。
中山美保さんは2017年に肺血腫による呼吸困難で亡くなりました。
「亡くなった人③竹本浩三
厳密にいえば、竹本浩三さんは芸人さんではなく、脚本家・演出家といった裏方の道を歩んだ人です。
吉本新喜劇の基礎を築いた人物で吉本興業の顧問も歴任します。
竹本浩三さんは様々な演出に携わっており、吉本新喜劇の基礎を作り上げた人物と言えるでしょう。
吉本は松竹新喜劇との差別化を図るために早口でテンポの良さを売りにしています。
竹本浩三さんはこれについて、「テンポの速さについていけないなら松竹へ行けばいい」と語っていました。
2022年に2月18日に89歳で亡くなりますが、死因は不明です。
亡くなった人④花紀京
花紀京さんは、とぼけた芸風で親しまれ、「岡八郎さん」と並んで吉本新喜劇の二大巨頭と呼ばれていました。
お父様が漫才師の「横山エンタツさん」、義理のお姉さまが「中山美保さん」という毛並みのよさもあります。
1962年に吉本新喜劇に入り、1963年から1969年まで座長を務めています。
1989年に吉本新喜劇を退団したあとも映画やドラマに出演し活躍していました!
2001年には「ダウンタウン」らとのユニット「Re・japan」でNHK紅白歌合戦に初出場。
翌年の2002年に脳腫瘍を発症、2003年から闘病生活を送っています。
2015年8月15日には肺炎のため78歳で亡くなりました。
亡くなった人⑤木村進
木村進さんは祖父に初代博多淡海、父は2代目博多淡海、母は博多淡子を持つ芸能一家で育ちました。
高校を中退した当時、1度は淡海劇団に入門しましたが父親の重圧に耐えられず退団。
その後は親への反抗心からか吉本へと進みました。
木村進さんは、多様なボケにツッコミもできて、その上二枚目を売りにするという異色のキャラで、弱冠23歳で吉本新喜劇の座長に抜擢されます。
しかし、1988年に脳内出血で倒れましたが一命は取り留め、左半身に重い障害が残ります。
歩くこともままならなかったため吉本新喜劇を退団しフリーでの活動を開始しました。
その後、1999年盟友の「間寛平さん」の公演に電動車いすに乗ってゲスト出演を果たします。
2019年5月19日に腎不全のため68歳で亡くなりました。
式には吉本新喜劇のメンバーだけでなく、オール巨人さんなど吉本の芸人さんが多く参列していたようです。
亡くなった人⑥山田スミ子
1963年に吉本新喜劇に初出演、1968年には正式に入団し1982年まで活躍しています。
吉本新喜劇で初の女座長を務めたことから多くの人の目に留まりました。
山田スミ子さんといえば、「あかんて言うてんのが、分からへんのか~!」、「あかん言うてますのに、どないやねんな~!」のキレ芸で一世を風靡しました。
吉本新喜劇を退団後は拠点を東京に移し、「家政婦は見た!」にレギュラー出演します。
また、「やすきよ笑って日曜日」では「横山やすしさん」の妻役として出演し、持ち前のツッコミ芸で圧倒します。
2017年に母親を亡くしてから体調を崩しており、それまでは母の介護と女優業を両立させていたとか。
2019年2月12日に直腸がんのため73歳で亡くなりました。
実は2年ほど闘病期間を送っていた山田スミ子さんですが、周囲には病気のことを明かしていなかったようです。
亡くなった人⑦井上竜夫
井上竜夫さんは1963年に吉本新喜劇に入団、「竜じい」の愛称で知られる名脇役で「おじゃましまんにゃわ」のフレーズでおなじみでした。
役柄はおじいちゃん役が多かったですが、時にはお偉いさん役や悪役もこなし、多彩な一面を見せました。
2014年の公演中に体調を崩し、1か月ほどで復帰するものの呼吸器系の持病が見つかり休養。
2015年に行われた「吉本新喜劇まつり!2015」が最後の公演となっています。
2016年10月5日に高度肺気腫のため亡くなりました。
亡くなった人⑧船場太郎
船場太郎さんは、バンドマンの出身ですが、その後に吉本新喜劇の座員になります。
1965年に吉本新喜劇に入団。
「せん・ばたろうです」、「クワ~クワ~クワ~」のキャグで大受けしますが、1991年に大阪市議会議員選挙に出馬し当選、6期24年務め、2019年に旭日小綬章を受けました。
2020年11月27日に亡くなりましたが、死因は不明です。
無くなる1年ほど前から体調を崩されていたことから、何らかの病気を患っていたようですね。
亡くなった人⑨島木譲二
島木譲二さんは、もともとプロボクサーでしたが、身体のケガから引退を余儀なくされます。
その後に「間寛平さん」の紹介で吉本新喜劇にてデビューします。
意外なことに島木譲二さんは自ら芸人を希望していたとか!
肉体派芸を売りとして、ときには危険なパフォーマンスを行うなどしていました。
「大阪名物パチパチパンチ」は、インパクトの大きさから多くの人に記憶に残っているのではないでしょうか。
2011年に体調を崩し芸能活動を休止、療養に専念していましたが復帰は叶いませんでした。
2016年12月16日に脳溢血のため亡くなっています。
亡くなった人⑩室谷信雄
室谷信雄さんは、若くして頭髪が薄かったことをネタにしたタマネギのギャグや「ごちゃごちゃ言うとったら、しゃーきまっそー!よ、ワ~レ~」の叫び声で人気を博します。
1970年代から1984年まで吉本新喜劇で活躍し、座長を務めるなどして新喜劇を支えてきました。
吉本新喜劇のメンバーと吉本の芸人の間には壁があり、あまり交流はなかったそうです。
室谷さんは当時若手芸人だった明石家さんまさんや島田紳助さんなど、吉本の芸人とも積極的に交流を図っていました。
そのことから先輩後輩関係なく多くの人たちから慕われていたようですね。
ところが1984年11月に咽頭がんを発症し声帯を切除することになり、声を失った室谷信雄さんは芸能界を引退します。
このことがきっかけで室谷信雄さんは周囲の人たちと距離を置き始めました。
理由は周囲の人に迷惑をかけたくないという気持ちからだそうです。
しかし、2010年に放送された24時間テレビににて、アースマラソン中の間寛平さんを激励するため出演。
2人の深い絆を感じる素晴らしい演出で見る人の心を熱くさせました。
2018年12月5日に72歳で亡くなっていますが、死因は不明です。
亡くなった人⑪チャーリー浜
チャーリー浜さんといえば、「…じゃあ~りませんか」のフレーズで一世を風靡し、1991年の新語・流行語大賞を受賞するなど、吉本新喜劇を超えて全国的な人気者になりました。
チャーリー浜さんの活躍が、吉本興業の東京進出に大きく貢献し、吉本新喜劇が東京をはじめ全国で取り上げられるなどブームの火付け役になり、チャーリー浜さんは吉本興業でも重要視されます。
チャーリー浜さんが吉本新喜劇に入団したのは1962年。
実は、チャーリー浜さんは「他人に厳しく、自分には甘い」と批判されることが多かったようです。
山田花子さんをビンタした、小木博明さんに対して舞台上で厳しく接するなどいくつかの逸話も存在します。
吉本きっての奇人変人と言われており、舞台にはあまり溶け込んでいなかったようですね。
晩年は2020年に体調を崩し、2021年4月18日に呼吸不全および誤嚥性肺炎のため78歳で亡くなっています。
亡くなった人⑫原哲男
原哲男さんといえば、四角い顔に黒い丸ぶちメガネ、ヒゲがトレードマークでその風貌から「カバ」の愛称で親しまれ、それを逆手にとった「誰がカバやねん!」や「死なん程度に殺したる」のギャグで笑いをとりました。
1963年に吉本新喜劇に入団し、1969年には座長を任されています。
しかし、1990年に吉本新喜劇を脱退し、その後は俳優として「部長刑事シリーズ」などのドラマ出演をして幅広い活躍をします。
そんな原哲男さんですが、実はカバと呼ばれることを嫌がっていたそうです。
三枚目キャラの原哲男さんは自身を二枚目だと認識していました。
そのため、カバと呼ばれることを嫌っており、「カバに似ている芸能人」としてオファーを受けたときも断ったのだとか。
理由は「あれは舞台での設定の話や」とのこと。
あくまで舞台を盛り上げるための演出だったということですね!
2013年1月13日に肝がんのため78歳で亡くなっています。
亡くなった人⑬寿一実
寿一実さんは、吉本新喜劇の座員でありながら、九州のローカルタレントとしても活躍。
スキンヘッドの風貌を活かし、数多くの「ハゲネタ」を披露していましたね。
1976年に吉本新喜劇に入団し副座長を務めています。
しかし、借金の連帯保証人だったことから、先輩芸人の借金を肩代わりすることに。
1989年に芸能界を引退し地元の佐世保で不動産業を営み、無事に借金を返済しました。
その後は1992年に福岡吉本で芸能界復帰を果たし、地元のローカル番組を中心に活躍!
2018年に九州新喜劇を立ち上げ初代座長に就任しています。
2023年5月5日に亡くなりましたが、死因は不明です。
亡くなった人⑭財津一郎
「もっともっとタケモット~」や「ピアノを売ってチョーダィ!」のCMでおなじみの財津一郎さんですが、吉本新喜劇出身だったのは意外でしたね。
財津一郎さんは、1962年に吉本興業に入っており活躍、「ヒッジョーにキビシ~ッ!」や「~してチョーダィ!」で評判になりました。
1965年に座長を務めており、吉本新喜劇をさらに盛り上げる存在に。
1969年には吉本興業を退社して、拠点を東京へ移して俳優として映画やテレビドラマで活躍します。
1995年に脳内出血を発症し手術を受け、軽い麻痺が残ったもののリハビリの末、芸能界へ復帰。
2011年には「3年B組金八先生ファイナル」に出演しています。
晩年は、タケモトピアノのCMのみになり、2023年10月14日に慢性心不全のため89歳で亡くなっています。
亡くなった人⑮高石太
高石太さんは、新劇青猫座、劇団喜劇の座員を経て、1975年に吉本新喜劇の座員となった、いわゆる外様のひとりです。
投げられた勢いで腹から滑り、服をめくって太鼓腹をさすりながら「熱う~!熱う~!」と叫ぶギャグで一世を風靡しました。
吉本新喜劇では副座長を務めたものの、1987年には退団し木村明さんと漫才コンビを結成。
コンビでの活動が振るわなかったためか2年ほどで解散し松竹新喜劇へと移籍しました。
2008年には、北海道札幌市に移住して市民劇団「教文13丁目笑劇一座」に所属して、喜劇ワークショップやボランティア活動をしていましたが、2020年1月31日に虚血性心疾患のため71歳で亡くなっています。
亡くなった人⑯岡八郎
岡八郎さんは、吉本新喜劇にて座長を務めていた人物です。
「奥目の八ちゃん」として親しまれており、30歳の時に座長として就任していました。
「くっさー」「えげつなー」「すきがあったらかかってこんかい!!」などのギャグで知られており、花紀京氏や原哲男氏らと共に吉本の中心的人物として知られていたのです。
1959年に吉本新喜劇に入団し、一度は漫才の道を進みますが相方が自殺。
再び役者を目指すために吉本新喜劇へ再入団、座長へと就任しました。
1993年に胃がん、1995年に急性膵炎などを患っており、1996年には自宅で転倒したことで脳挫傷を発症。
後遺症として記憶障害が残ってしまったことからセリフを覚えることが困難になりました。
2005年7月26日に肺炎による呼吸器不全によって死去されています。
亡くなった人⑰横山やすし
横山やすしさんは、稀代の天才漫才師とも謳われた人物です。
性格は破天荒、そして歯に衣着せぬ物言いに加え「独特の色気がある」と評される華麗な芸風でもって現在のお笑い界への影響も大きく及ぼした、偉大な人物といえます。
しかし、無類の酒好きであるためか数々の不祥事を起こしており、1989年には吉本を解雇されています。
1996年、大阪の自宅で心肺停止状態で発見され救急搬送されますが、アルコール性肝硬変によって死亡しました。
横山やすしさんは中学卒業後、少年漫才師として松竹新園芸に入社。
相方の岡田さんが廃業したことからコンビを解散し、その後吉本興業へと移籍しました。
そこで1966年、西川きよしさんと漫才コンビ「やすしきよし」を結成しています。
2人は稽古に対する姿勢が全く違い、横山やすしさんはあまり稽古をしないタイプ。
対して西川きよしさんは読み合わせを10回以上しないと気が済まないタイプで、稽古についてはいつも揉めていたそうです。
その反面2人の漫才は面白く、漫才の大会で入賞するなど活躍の場を広げていきました。
しかし、横山やすしさんの起こした数々の不祥事が問題となり、吉本を解雇されることに。
横山やすしさんが起こした不祥事は以下の通りです。
- 無免許運転でタクシーと接触事故を起こし、相手の運転手に暴行をふるう
- 乗車したタクシーの運転手と口論になり暴言を吐き車に蹴りを入れる
- 酒に酔った状態で生放送に出演し暴言を吐く
- 渋滞によって飛行機に乗り遅れ、結果番組に穴を開けてしまう
- スター爆笑Q&Aに出演し、ゲストの片岡鶴太郎さんに突っかかる(のちに番組を降板)
- 長男がタクシー運転手に対し傷害事件を起こし無期限謹慎
- 酒気帯び運転でバイクと人身事故を起こし解雇
1988年の無期限謹慎のあと、1989年に西川きよしさんが司会を務める番組で芸能界に復帰していました。
そこで相方の西川きよしさんからは「心を入れ替えて頑張れ」と激励を受けています。
横山やすしさんもその言葉に対し、「心を入れ替えて頑張ります」と宣言。
この時点で吉本からは「次、不祥事を起こしたら解雇」と忠告を受けていました。
しかし、その忠告も虚しく1989年に人身事故を起こし解雇されています。
吉本新喜劇で亡くなった喜劇人を悼む
いかがでしたか。吉本新喜劇で亡くなった17人を紹介しました。
人生いろいろ、この世の去り方も人それぞれです。
芸人さんという職業の性質でしょうか、順風満帆な人生の終わり方をしていない人が多いのも特徴ではないでしょうか。