【日航機墜落事故】生存者が殺された!?消えた男の子のタブーや事故の真相は?

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1985年8月12日に起きた史上最大の航空事故である日航ジャンボ機墜落事故

乗客509名、客室乗務員11名、チーフ4名の計524名を乗せた航空機は群馬県の山中に墜落しました。

犠牲者は520名、生存者4名とされていましたが当初は7名もの生存者がいたようです。

不可解な点も多いことから意図的に殺されたと言われていますが、果たして本当なのでしょうか?

日航機墜落事故の生存者は殺された?消えた男の子の真相がヤバい!?

日航機墜落事故の要因は、「ボーイング社の修理不十分により機体後部の圧力隔壁が破断し垂直尾翼を直撃、破壊され操作不能になり墜落した」と記されています。

しかし墜落事故現場ではガソリンやタールのにおいがしていたといわれており、これはゲル化燃料を使用した軍用の武器特有のにおいであることが分かっています。

また、機体付近に残された遺体は飛行機事故による損傷にしてはあまりにも激しかったようです。

この不自然な焼け跡から、かろうじて生き延びた生存者を何者かが意図的に殺したのではないかといわれています。

生存者を殺したのは自衛隊員!?

この航空機の墜落の原因は、「機体後部の圧力隔壁が破断し垂直尾翼を直撃、破壊され操作不能になり墜落した」とされています。

事実として自衛隊のファントム機2機が日航機123便を追尾していたとの目撃証言が複数あり、123便は自衛隊によって墜落させられたのではないかと言われているのです。

凶器は火炎放射器?

生存者が殺された凶器として疑われているのが「火炎放射器」です。

日航機墜落事故の現場からガソリンのにおいがしたという証言があり、飛行機はジェット燃料であることから墜落した飛行機が燃えた以外の何かで遺体が焼かれたのではないかと示唆されています。

さらには生存者は毒ガスで殺害されその後証拠隠滅のために火炎放射器で周囲を燃やしたという話もあります。

航空機墜落事故で遺体が燃えたといってもあまりにも遺体の損傷が激しすぎるため、自衛隊によって隠蔽のために殺害した人々を火炎放射器で燃やしたのではないかという説もあります。

焼け焦げた少年の写真が

写真の子供の遺体はかなり激しく燃えておりあまりに凄惨な姿です。

この写真雑誌には「紙幣や書類が周囲に散乱していた」と記載されていました。

その遺体損傷の激しさから、近くでかなり激しく燃えていたところにこの子供がいたことが予想されますが、子供の近くにある木々はほとんど燃えていないのです。

子供のみが激しく燃えたとはいいがたいこの状況で、故意に焼かれたのではないかという意見が出るのも不思議ではないはずです。

生存者が殺されたと言われる理由は!?5選を調査!

人を救うはずの自衛隊ですが、生存者を燃やした・殺したと言われています。

そんな不名誉な噂が流れるのにはどのような理由があるのでしょうか?

生存者が殺されたと言われる理由5選について、1つずつ紹介していきましょう。

理由①救助が遅れた

1つ目の理由は捜索隊の到着が遅れたことです。

日航機が群馬県の山中に墜落したのは1985年8月12日18時56分のこと。

そして捜索隊が現場に到着したのは翌朝9時となっており、約14時間後のことでした。

墜落が夜間だったことから明るくなってから捜索が行われたとも考えられます。

しかし、一部の情報によると自衛隊が誤った情報を流し、捜索隊の到着が遅れたとか。

生存者によると墜落直後は声を発する人が何名かいたようです。

迅速に救助が行われていれば救えた命があったことは間違いないでしょう。

理由②2度焼された遺体があった

2つ目の理由は2度焼きされた遺体があったというもの。

現場にいた群馬県医師会によると、「通常の焼死体をもう一度焼損したようにみえた」というのです。

この発言から生存者の口を封じるために火災放射器で焼かれたのではないかと見られています。

遺体の中には炭化したものや、歯の裏にすすがついたものもあったとか。

しかし、捜索が行われる前に火災が何度も起きていたことが原因とも言われており、真相は分かっていません。

理由③ガゾリンの匂い

3つ目の理由は、捜索隊が到着した時に現場付近でガソリンの匂いがしたというもの。

地元の消防隊員はこれについて「ガソリンとタールが混ざったような匂い」と証言。

一般的な航空事故ではガソリンは生じない為、ガソリンの匂いがするというのは不自然なのです。

その為、理由②で説明した火災放射器で遺体を焼いたときに残った匂いではと見られています。

ただ、現場は様々な匂いが充満していたことから勘違いした可能性も大いに考えられるでしょう。

理由④報道の生存者の人数が違う

4つ目の理由は報道直後の生存者の人数が違ったことです。

事故直後は生存者7名とされていましたが、実際の生存者は4名。

全員女性だということが分かっており、男性の生存者は確認されませんでした。

生存者の数が違った理由は”ダブルカウント”が原因とされています。

騒然な現場で捜索隊も冷静ではいられなかったのでしょう。

理由⑤消えた男の子のタブー

日航機墜落事故の謎として「消えた男の子」というワードが世を騒がせました。

10歳前後とみられる髪が短い少年が自衛隊の隊員に抱きかかえられている写真がメディアに上がり、この少年の足には細長い布のようなものが巻かれており、応急処置を施されたようにも見えます。

ということは救助当時この男の子は生きていたのではないかと疑問に思いませんか?

事故翌日の救出現場の放送ではフジテレビ山口真記者の生中継で、「今12、3歳の少年が救出され自衛隊員に担がれ尾根に向かいました。まもなく自衛隊のヘリコプターで救出されるものと思われます。」と放送されています。

しかし事故後生存者は女性4名とされており、この少年の数はカウントされていません。

なぜ生存者名簿に少年の名前がないのでしょうか?

この事は「消えた男の子のタブー」として多くの疑問を残したままです。

なぜ生存者は殺害された?

機体が破壊炎上するほどの大きな事故で、奇跡的に命が助かったにもかかわらず

なぜ生存者は殺害されてしまったのか?

誰に殺されてしまったのか?

多くの説がありますがもっとも話されていることとして、自衛隊が証拠隠滅にために故意に殺害したのではないかと疑われています。

真犯人の自衛隊による証拠隠滅

本来ならば生存者のために救助に向かうべきはずの自衛隊ですが、不可解なことが多いことから実際の事故を引き起こしたのは自衛隊であり、人命優先ではなくその証拠を消すために時間稼ぎをしたり生存者を殺害したのではないかという説があります。

自衛隊が無人標的機を誤って123便にぶつけてしまいそのためコントロールを失い墜落したのではないかと言われているのです。

また、元自衛隊員の男性の証言によると、自衛隊の司令官から彼に電話があり「無人標的機を民間機に当ててしまった。百里基地から偵察機2機に追尾させている」との連絡があったといいます。

実際にファントム機2機が123便を追尾していたことは多くの人の証言があり、かなり確実性が高いのではないかと思います。

もしこのことが事実であるなら自衛隊はこのミスを隠さなければ批判を買うことは目に見えている…となると責任逃れをしようとして自衛隊はこのことを必死に隠そうとするでしょう。

ボーイング社の修理不十分ということにして、自衛隊が起こした「事件」を「事故」に仕立て上げたのではないかと考えられるのです。

生存者の救助をあえて遅らせた?

救助活動が開始されたのは墜落事故が発生した翌日の朝8:30でした。

この時点で事故発生から14時間も経過しています。

また、日暮れの時間であることや山岳地帯に落下したことで墜落現場の特定や捜索に時間がかかり、最初の救助が入ったのは朝方

これについては多くの証言がありますが、自衛隊が故意に誤った現場の情報を流したりして証拠隠滅の時間稼ぎをしていたのではないかと言われています。

また、「救助活動を始めようとしていたところ中止を命じられた」、「救助ヘリが近づいていたのに離れていった」等の証言もあり、さらには墜落直後アメリカ軍のヘリコプターが救助に向かっていたものの自衛隊がそれを断り、地元の消防団の手助けをも断ったといいます。

そしてしばらくの間墜落した現場を特定できないことにして故意に救助を遅らせたのです。

落合由美さんの証言では事故発生時、落合さんの付近には声を発している生存者が多くいたといいますがその声をかき消すようにヘリコプターの音は段々と遠くへ過ぎ去っていったといいます。

14時間も経過した後では生存率がかなり下がるのも事実であり、もっと早く救助活動を開始できていればもっと多くの命を救えたかもしれない…と心が痛みます。

自衛隊員が射殺された?

123便が墜落した際NHKニュースで衝撃的なことが報道されました。

待機していた自衛隊員が何者かに銃撃され射殺されたというのです。

また、当時のニュースでは「待機命令を無視して救出に行こうとした隊員を射殺」というテロップが出ており、その時ニュースを見ていた多くの人が目撃しています。

その後自衛隊員が射殺されたのは誤報でしたというニュースが流れたといいますが、実際の真相は明らかになっていません。

人の命を救おうと行動した隊員を射殺したことが事実であるならば、裏がある気がしてしまいますよね。

日航機墜落事故の生存者の現在は?

当時、警察学校に通う生徒も総動員で事故の対応を行っていました。

多くの犠牲者を出した日航機墜落事故ですが4名の生存者は今どうしているのでしょうか?

ここからは4名の生存者がどのように過ごしているのかご紹介します。

生存者①:川上慶子

墜落現場から助けられた川上慶子さんは事故当時12歳で国立病院に搬送され処置がされました。

ある程度回復してからは島根県で家族と一緒に生活を始めましたが、いたずら電話がかかってきたり、いやがらせや好奇の目がむけられたりと壮絶だったといわれています。

しかしそのようなことに負けずに墜落事故の後は看護師として兵庫県の病院で活躍していました。

その後スキューバダイビングをするために訪れたアメリカで出会った男性と国際結婚をしているといいます。

生存者②:落合由美

落合由美さんは当時26歳日本航空のアシスタントパーサーをしていました。事故当日は仕事を終えて帰省するためにプライベートでJAL123便に搭乗していたそうです。

事故後に少しの間日本航空で事件関係の仕事に従事していましたがその後退職しています。

公開されている情報が少ないですが、WEBによると現在は主婦として生活しているといわれています。

生存者③・④:吉崎博子・美紀子

博子さんは当時34歳で、娘の美紀子さんは当時8歳でした。

事故時は博子さん・旦那さん・長女美紀子さん・長男・次女の家族で一緒に搭乗しており事故当時はかなりひどい怪我を負っていたといいます。

現在は回復し親子で都内で暮らしているそうです。

日航機墜落事故の生存者は火炎放射器で自衛隊員に殺された?のまとめ

事故から38年経った今、遺族の方々はそれぞれの思いを胸に日々を過ごしているようです。

しかし事故当初は騒がれた大きな事件でも、時が経てば忘れられていってしまいます。

「事故と思われていた事が本当は事件だったら?」「何らかの大きな力によって隠蔽・改ざんされていたら?」

私たちは真実を知る必要があると思います。

多くの命がなくなったこの事件を、皆さんはどう思うでしょうか。