1985年に起きた「日航機墜落事故」は、単独機の航空事故としては世界最多の死者数を出した事故です。
小説やドラマの題材となり、令和の今でも悲惨さと教訓が語り継がれる事故です。
この事故で、有名歌手の坂本九さんがお亡くなりになりました。
坂本九さんは、海外で”スキヤキ”というタイトルでも有名な、”上を向いて歩こう”を歌った歌手です。
一体日航機墜落事故とはどのような事故だったのでしょうか?
今回の記事は、日航機墜落事故と坂本九さんについての記事となります。
ご注意ください。
航空史上最大の事故!日航機墜落事故とは?
日航機墜落事故は航空史上最大級の死者数520人をだした事故です。
これを上回るのは、「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」の死者数583人のみです。
こちらの事故は二機のジャンボ機が滑走路上で衝突した事故となっており、亡くなった方も二機の合計となっています。
よって日航機墜落事故は単独機の航空事故としては歴史上最大の死者数を出しているのです。
1985年8月12日 日航機が御巣鷹山に墜落
この事故は1985年の8月12日に起きました。
当時は夏休み真っ只中の「お盆入り」の直前で、飛行機は満員だったといいます。
日航機は離陸後12分ほどで操縦不能に陥り、32分の迷走の末、群馬県上野村の御巣鷹山に墜落しました。
乗員は客室乗務員を合わせて524人で、そのうち520人が亡くなりました。
このような悲惨な墜落事故で、生き残った4人は奇跡としか言いようがないでしょう。
日航機は何故墜落した?悲劇はどのようにして起きたのか
日航機墜落事故の原因は、機体の疲労亀裂によるものでした。
元々の発端と考えられているのは大阪の伊丹空港で起きた航空機同士のしりもち事故だったようです。
これに加えて本機、日本航空123便は16000時間にわたる飛行を行っており、事故以前にボーイング社で修理が行われたばかりでした。
しかし、ボーイング社による整備は徹底したものではなく、完壁な修理が行われずに機体は日本に戻ってきました。
事故後にボーイング社は自らの非を認め、機体の整備を行った整備士数人が書類送検されたようです。
同機は伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる直前の午後6時25分ごろ、爆発音とともに機体に異常事態が発生し、操縦不能になりました。
そしてそのまま32分の迷走を続け、墜落したのです。
未然に防ぐことができた事故であることを考えると、非常に悲しいですね。
あの日の日本航空123便に乗っていた…坂本九は何故亡くなった?遺体の状況は?
日航機墜落事故の犠牲者の中には、有名歌手の坂本九さんがいらっしゃいました。
この他にも著名人が多数搭乗していましたが、本事故を語る際に大体名が上がるのは坂本九さんです。
坂本九さんはいったいどのような最期を迎えたのでしょうか。
亡くなった坂本九さんの亡くなった原因や遺体の状況について調査してみました。
坂本九とはどんな人物?
坂本九さんは昭和を代表する歌手の一人で、さまざまなヒット曲を出しています。
坂本九さんといえば、”上を向いて歩こう”という名曲を歌った歌手として知られています。
海外でも”上を向いて歩こう”は人気を博し、”スキヤキ”というタイトルで知られています。
この”スキヤキ”というタイトルは、レコーディングの際にイギリスのバンドが”上を向いて歩こう”というタイトルを覚えられなかったため、「面倒だから”sukiyaki”と呼ぶことにしよう」と決めた結果そのままタイトルになってしまったようです。
奥さん女優の柏木由紀子さんで、二人の娘さんがいらっしゃいます。
坂本九が日本航空123便に乗ったのは偶然だった?
坂本九さんは事故当日、大阪府にある友人の選挙の応援として翌13日に行われる事務所開きに駆けつけることになっていました。
坂本九さんは本来、国内移動には日本航空 (JAL) ではなく必ず全日空 (ANA) を使うというこだわりを持っていたそうなのですが、この8月12日は全日空便が満席で仕方なく確保したのが日本航空123便だったのです。
つまり坂本九さんは本来ならば乗るはずのない飛行機に乗って、本当に偶然事故に遭ってしまったのです。
坂本九の遺体はいつ、どのようにして見つかった?
墜落した日航機に乗っていた坂本九さんは、無念にも亡くなってしまいました。
日航機墜落事故の犠牲者は520人で、助かったのはたった4人だけです。
坂本九さんも最期まで懸命に生きようとしたに違いありません。
そんな坂本九さんの遺体はいつ、どのようにして見つかったのでしょうか。
坂本九さんの最期に迫ってみたいと思います。
遺体は事故発生から2日後に発見された
坂本九さんの遺体は、事故発生の8月12日から二日後の8月14日に発見されたそうです。
日航機墜落事故は事故の激しさから、犠牲者多くの遺体は激しく損傷していたようで、坂本九さんの遺体も激しく損壊していました。
当時はDNA鑑定といったような遺体の身元を確認する方法が無かったので、日航機墜落事故の搭乗者の損壊した遺体の身元を特定するのは困難なものだったようです。
家族が確認・発見の決め手は笠間稲荷のペンダント
坂本九さんの身元が特定されたのは遺体が発見されてから二日後の8月16日でした。
遺体の身元特定の大きな決め手となったのは、坂本九さんが肌身離さず身につけていた「笠間稲荷のペンダント」だったようです。
このペンダントが胸に刺さっていたことを家族が確認し、身元が特定されました。
また歯形からも、坂本九さんの身元特定がなされたようです。
遺体の状況は…胴体のみだった?
調査してみると、坂本九さんの遺体は胴体しか発見されなかった可能性が高いようです。
座席で身を低くする「安全姿勢」といわれる体勢をとっていたとも言われているようですが、日航機墜落事故は悲惨な事件で、腕や足一本で家族の元に帰った方もいらっしゃいます。
坂本九さんは身元も特定できる程度に遺体が残っていたようなので、まだ良い方だったのかもしれません。
しかしどれだけ調査してみても、「胴体にペンダントが刺さっていた」までの情報しかでてこないので、遺体が顔と胴体のみだった可能性もあります。
遺書は残されていたのか?
残念ながら坂本九さんの遺書は残されていないようです。
坂本九さんが機内に持ち込んでいたボストンバッグは無事だったようなのですが、その中からも遺書は発見されませんでした。
ボストンバッグの中には録音機能付きのウォークマンが入っていたようで、ご家族はこれに遺言を録音してないか期待したそうですが、ウォークマンには「We are the world」が録音されているだけだったそうです。
日航機墜落事故520人の犠牲者と生存者その後
日航機墜落事故は520人の犠牲者を出しました。
同機に搭乗していたのは乗務員もあわせて524人で、生存者は4人のみです。
しかし、この事故は非常に悲惨なもので、4人も生き残っていたことが奇跡と言えるほどなのです。
高度一万メートルを飛行していた航空機が墜落したのですから、その悲惨さは想像を絶するものでしょう。
最後に犠牲者520名の最期と生存者のその後について調べてみました。
誰もが墜落現場で目を覆った…520人の犠牲者の遺体
日航機墜落事故の犠牲者の遺体は激しく損壊し、ちゃんとした状態で家族の元に戻った遺体の方が少なかったそうです。
墜落現場では首と胴体が繋がっている遺体の方が少なかったそうで、家族の元に腕や足だけが戻ったケースもあったらしく、まさに阿鼻叫喚の光景だったと思われます。
また、怒り狂った遺族が日航職員に詰め寄り、
墜落直前に遺書を遺していた…乗客の最期の言葉
知子 哲也(両親を)をたのむ 圭市
突然 ドカンといってマスクがおりた
ドカンといて降下はじめる
しっかり生きろ
哲也 立派になれ
津慶
知代子
どうか仲良く がんばって
ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
原因は分らない
今五分たった
もう飛行機には乗りたくない
どうか神様 たすけて下さい
きのうみんなと 食事をしたのは
最后とは
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした
どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ
飛行機は まわりながら
急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった
と感謝している
これらは機内に残されていた犠牲者の方々の遺書です。
どれも揺れる機体の中で震える手で書かれたもので、自分の死よりも家族に対する想いを綴っています。
このうち最初の遺書を書き残した谷口正勝さんの奥さんは正勝さんの遺言どおり子供を大学まで育て上げ、今なお日航機墜落事故のことについて講演をおこなっているようです。
日航機墜落事故4人の生存者のその後
日航機墜落事故の4人の生存者のその後の人生は苦悩の連続だったようです。
事故によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされる日々が続いたといいます。
また周りの人間は彼らを激励する者だけではなく、事故の真相を知りたいが故に生存者にストーカー行為を繰り返す者もいたそうです。
事故の傷は今も癒えること無く残ることでしょうが、4人の生存者はそれでも静かに暮らしています。
彼らはこれからも事故のことを抱えながら、懸命に生きていくのでしょう。
日航機墜落事故は航空史上最多の死者数!歌手・坂本九さんの命を奪った大事故だった
日航機墜落事故は犠牲者520名の悲惨な事故で、昭和を代表する歌手である坂本九さんの命の奪いました。
奇跡的に生き残った4人の生存者は今なお、事故が残したものに苦しめられ続けています。
それでも彼らは生き続けています。
それは亡くなった方の分まで、生存者の方は必死に生きなければならないからです。
この事故で亡くなった方が安らかに眠れるよう、ご冥福をお祈りいたします。