東日本大震災で亡くなった有名人は?遺族のエピソードについても!

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東日本大震災が起きて早11年が経ちました。今でも死者・行方不明者、合わせて約18000人程いる、と言われています。

東日本大震災有名人の中に、過去に選手として活躍していた有名人、現在も活躍している有名人や家族を失った有名人もいます。

なので今回は東日本大震災有名人について、どんな人が亡くなり、東日本大震災有名人の家族の方がどのようにして亡くなったのかを考察していきます。

あれから11年…東日本大震災で亡くなった有名人は?

2011年3月11日に起きた東日本大震災は12都道府県で起きた地震になります。マグニチュードは9.0で震度6を記録した震災です。

東日本大震災有名人として猫ひろしさん、佐野正文さん、佐藤恵利子さん、の亡くなった経緯、またはなぜ間違った情報が流れたのかまとめました。

その1.  猫ひろし(タレント)

ねこひろし
1977年千葉県市原市生まれ

2011年3月28日にねこひろしさん(当時33歳)はツイッターで死亡説が流れました。そこで当時を振り返ってみます。

地震発生時は誰が行方不明者で、誰が亡くなったのか、を把握するのに時間が掛かりました。

警察庁の発表した行方不明者リストの中にねこひろしという人物が記載されていたためです。

そして、あれから11年が経ち現在は東日本大震災有名人として、猫ひろしさんはカンボジアに国籍を移して、マラソンのカンボジア代表となっています。

それから5年後の2016年にはロンドンオリンピックのカンボジア代表選手としてオリンピックに出場しました。

現在もカンボジアの国籍でマラソンに励んでいます。

その2.  佐野正文(元ラグビー選手)

佐野 正文
1948年生まれ秋田県秋田群北浦町出身

元ラグビー選手で双子の弟、佐野直文さんもラグビー選手でした。東日本大震災有名人の1人です。

新日鉄釜石ラグビー部に入部後、ポジションはフォワードで北の鉄人と呼ばれるまでに成長しました。

引退後は、新日鉄釜石で働きながら釜石ラグビー強化会長もしていました。2011年3月11日の東日本大震災の津波に飲まれて亡くなっています。

それから時は経ち、釜石スタジアムで行われた、2019年ラグビーワールドカップを孫の瑛大君が観戦しました。

試合を見た感想は「おじいちゃんを超えたい」と、活き込んで練習に励んでいきました。

その3.  佐藤恵利子(サッカー選手)

佐藤恵利子さん
1979年宮城県亘理郡亘理町出身

1998年より2007年までルネサンス熊本FCでサッカー選手として活躍していました、東日本大震災有名人の1人です。

ルネサンス熊本FCでは2004年まで未勝利も佐藤選手の2ゴールにより初勝利しています。それから佐藤恵利子選手はキャプテンとなり中心選手の1人でした。

引退後は地元の宮城県でフットサルのチームに参加していましたが、2011年3月11日の東日本大震災の津波により命を落しています。

その後は、チームに所属していた熊本で「佐藤恵利子選手を偲ぶ会」が催され、今でもファンの心に残っています。

悲しみを乗り越えて…東日本大震災で家族を亡くした有名人は?

東日本大震災有名人を佐々木朗希選手、生島ヒロシさん、マギー審司さんと、大切な家族を大津波で亡くし、悲しみを乗り越えてきた方たちです。

あれから11年経ち東日本大震災有名人の佐々木朗希選手、生島ヒロシさん、マギー審司さん、をまとめました。

その1. 佐々木朗希(野球選手)

佐々木朗希
2001年岩手県陸前高田市出身

2011年東日本大震災有名人の1人で父と祖父母を東日本大震災の津波で亡くしました。実家も津波の影響で流されたため、小学4年生の時に大船渡市移り住んでいます。

その後、小学校を大船渡市立猪川小学校に転校し、地元の軟式少年野球団、猪川野球クラブに入団しました。それから、県立大船渡高校に入学しております。

高校入学後のには、野球部に入部し、高校2年時には当時の最速タイとなる時速157㌔をマークし、ネットやメディアで話題となりました。

現在は東日本有名人の1人として、プロ野球の千葉ロッテマリンズに入団して、1年目は公式戦に出場は果たせないまま終了しています。

そして2022年5月の試合で完全試合を達成しました。父と祖父母を亡くした悲しみを乗り越えて、人々に勇気と感動を与えれるような活躍をしてほしいです。

その2.  生島ヒロシ(アナウンサー)

 

生島ヒロシさん
1950年生まれ宮城県気仙沼市出身

2011年東日本大震災有名人の1人です。妹である喜代美さんを東日本大震災の津波にのまれて亡くしました。

震災当時、生島ひろしさん本人は、仙台から東京に帰るために、タクシーに乗り継いで帰路についていた道中の出来事です。

福島県郡山市のタクシーのカーナビで、実家である食堂の近くが、火事で燃えていることを知りました。妹たちは無事であると、祈る思いでした。

しかし、行方不明のまま遺体が見つからず、時は過ぎていました。遺体が見つかった時にはDNA鑑定も精度があがっていたので判別がわかりやすくなりました。

今もなお、「行方不明者が多数いる中で遺体が見つかり、葬儀も行えたのはラッキーでした」とその後の会見で語っています。

現在でも東日本大震災有名人の1人としてテレビにラジオの仕事に活躍しています。

その3.  マギー審司(マジシャン)

マギー審司
1973年生まれ宮城県気仙沼市出身

2011年3月11日の東日本大震災有名人で、祖母がタンスに挟まれた状態で、かつ叔母が津波にさらわれて亡くなりました。

2011年3月21日にインタビューを受けて2人の火葬は昨日20日に終えたと、報告を受けています。そして義援金活動を渋谷のマッスルシアターで行う予定です。

今でも東日本大震災を忘れないため、風化させないため、人々を励ましたい思いもあり、東日本大震災有名人としてチャリティボウリングを主催しています。

東日本大震災で失われた命…後に伝えられた悲しいエピソード3選

2011年3月11日に東日本大震災が発生して、2022年3月11日で11年が経ちました。津波により家族を亡くした悲しみもあります。

家屋が倒壊して家族を亡くした悲しみも乗り越えてきました。そんな思いも考察していきます。

その1. 「ありがとう、大好きだよ」母を残して生き延びた悲しみ…

当時15歳だった少女は、東日本大震災が卒業式の日に起きました。地震で逃げ遅れた人々も多数いる中で運よく生き伸びれた少女の1人です

瓦礫に挟まれた母親を見つけて助けようとした少女は、「1人で瓦礫を持ち上げることが出来ず、ありがとう、お母さん」と言い、その場を離れる決断をしました。

震災後も諦めないで生きている人々に、勇気をもらいながら義援活動で助けられたこともあり、皆で協力しながら生きている姿に感動いたします。

その2. その声は住民の命を救った…命懸けの呼びかけ

住民たちを助けようとした1人の女性のお話です。その女性は町役場で働いていて、地震が起きた時に津波警報が出ていたので放送室まで駆け上がり声をはりました。

「住民の皆さん津波が来ています。高台に上って下さい」と言い続けました。

その女性は自分の身よりも住民を守ることを優先に考えていました。

女性は、潮が引いて津波が来ることがわかっていましたが、逃げるよりも住民を優先にした結果、津波に飲み込まれてしまいました。

もし、その勇気ある行動がなければ津波による被害は想像を絶するものです。

その3. 「死なない 愛してる」亡くなる直前恋人に送られたメール…

その日は来ました。東日本大震災で起きた地震、津波で流されて、とても悲しく切ない、1人の女性のお話です。

女性は地震が起きた日に交際相手にメールを送りました。「津波が来た」と送信しました。交際相手も応答しています「死ぬなよ」とメールを返しました。

結局、逃げ遅れてしまった女性はその後、遺体で発見された。とのことです。自宅も流され遺品はわずかに残っているくらいでした。

女性の思い出はわずかでも母親の心には一生消えることのない思いと、交際相手からいただいた、画像・メールだけになります。

東日本大震災に関係のある有名人と遺族を亡くした悲しみへ

今回は2011年3月11日に東日本大震災に関係のある有名人の猫ひろしさんや佐々木朗希選手についてまとめました。

津波による被害が多数で火事による被害は少なかったです。

復興は少しずつ進んでいますが、今でも福島県の原子力発電所は機能していません。

東日本大震災のような震災が二度と起こらないように祈るばかりです。