恩寵園事件は千葉県船橋市にある児童養護施設「恩寵園(おんちょうえん)」で起きた児童虐待事件です。
身の毛もよだつような痛ましいこの虐待事件は人気アニメ「ひぐらしのなく頃に」のモデルになったとも言われています。
実際に行われていた虐待の数々や、どのように事件が明るみになったのかを調べました。
恩寵園事件の結末や裁判についてもまとめています。
恩寵園事件の判決と園長の大濱浩達の現在は?
数々の虐待が行われた恩寵園事件ですが、事件はどんな結末を迎えたのでしょうか。
事件が収束に至るまでの経緯と事件後の状況についてまとめていきます。
1:地域住民の力で訴訟するが敗訴
職員や子ども達の訴えだけでは千葉県側は全く動いてくれませんでした。
そんな時に動いてくれたのが地域住民です。
署名を集めたり、弁護士会に声をかけて恩寵園の実態を世間に伝えようとしますが、なかなか要望は通りません。
地元新聞が恩寵園事件について報じると、事態の深刻さを知った大手新聞社からさらに報道が重ねられました。
こうして市民に恩寵園事件が知られるようになり「恩寵園の子どもたちを支える会」を発足させ訴訟を起こします。
しかし残念ながら敗訴でした。
虐待の事実は認められたようですが、大濱浩を辞めさせるという真の目的は叶いませんでした。
2:園長とその息子は有罪になるが…
1999年「恩寵園の子どもたちを支える会」が大濱浩とその息子らを刑事告訴しました。
捜査が始まったものの、立件できたのはたった1件のみでした。
その理由として挙げられるのは以下の3つです。
- 恩寵園でおこなわれていた数々の虐待は物証が乏しかった
- 虐待は日常的なものであったために職員や子供達は正確な日時や出来事を証言できなかった
- 暴行は3年、傷害は7年で時効となってしまうために過去の虐待を立件することは難しかった
千葉県警の懸命な捜査により、ようやく1994年9月18日の虐待行為(剪定バサミで子供の指を切りつけた)を立証することができました。
園長・大濱浩は傷害罪1件懲役8ヶ月、息子の大濱晶も強制わいせつ罪の1件懲役4年の実刑判決が下っています。
これまで子どもに対して与えてきた苦痛を考えるずいぶんと軽い判決のように思えます。
千葉県の対応は違法と認定
市民たちの申し立てで行われた訴訟では、告発のあった1996年の4月以降も恩寵園の運営に対して改善勧告をしなかった千葉県の対応は違法であることが認められました。
問題を大きくしたくないという逃げ腰の姿勢から、行動を起こさなかった千葉県側の責任は思いでしょう。
もし千葉県が黙認せず、適切な指導や対応が行われていれば子供達の苦しみが長引くことはなかったはずです。
3:園長の現在は?
園長・大濱浩はすでに刑期を終え出所していますが、現在どこで何をしているかなど詳しい行方はわかっていません。
恩寵園の卒園生11人は、大濱浩と千葉県に対して1人あたり1000万円、合わせて1億1000万円の損害賠償を求める裁判を起こしています。
児童養護施設の職員は公務員とみなされ、施設の中で起こした事故や不祥事については国家賠償法の定めにより個人で責任を負う義務はないのだそうです。
大濱浩個人には、賠償金の支払い義務が生じませんでした。
多くの子供達を苦しめて来たにもかかわらず、今もどこかで普通に暮らしているのかもしれないと思うと腹ただしい限りですね。
4:恩寵園の現在は?
恩寵園は2000年に全理事が交代し、現在も児童養護施設施設として存続しています。
職員の総入れ替えと新園舎の建て替えを行い、恩寵園は再スタートを切りました。
現在では真っ当な児童養護施設として、身寄りのない子供達を見守り育てています。
雰囲気も明るくなり、恐怖に支配されていた恩寵園ではなくなったそうです。
4:元・園児の現在は?
恩寵園で暮らしていた子供達のその後についてもご紹介します。
1999年、日本テレビの「特捜報道ドキュメント」では恩寵園卒園生や元職員に取材調査した様子が放送されました。
取材によると、虐待を受けてきた子供達の多くは記憶障害やPTSDなどの後遺症に悩まされていると言います。
- 急激に不安に襲われて自傷行為を行ってしまう
- ショックで多重人格になってしまう
- 悲鳴を聞くと動けなくなる
- 殴りたくないのに人を殴ってしまう
など自分ではコントロールできない問題を抱え、多くの人が苦しんでいるのです。
さらに、園長から問題児扱いされ続けたためか自己肯定感がとても低く、大人を信用できない人間に育ってしまいました。
虐待を行っていた園長らの罪はとても重いですね。
恩寵園事件の概要は?
恩寵園事件とは、千葉県船橋市にある児童養護施設「恩寵園」で行われていた児童虐待事件のこと。
1995年に匿名の告発があったことで事件が明らかになりました。
行われた虐待のあまりにもひどい内容に加え、警察や行政側の対応の悪さから注目を浴びました。
恩寵園で長年虐待が行われる
恩寵園の園長・大濱浩とその息子である大濱晶による日常的な虐待は約20年にわたり行われていたことがわかっています。
恩寵園は1946年、戦災孤児のための施設として開設されています。
1952年には児童福祉法に基づく児童養護施設となり、保護者がいない子供たちが暮らしていました。
保護者がいない子供たちは恩寵園を出ても行く場所などありません。
そのため多くの子供達は、虐待を受け入れることしか出来ませんでした。
もし虐待されていることを口外したら、もっとひどい仕打ちを受けるかもしれないという恐怖から誰も外部に助けを求めることはしなかったと見られています。
恩寵園事件で行われた虐待がヤバすぎる!?
恩寵園では日常的に虐待が行われていました。
その内容は本当にあったとは信じられないような非人道的なものです。
約20年という長きにわたって多くの子ども達を傷つけていたことは許しがたいことです。
園長は「言葉で分からない時は体で覚えさせる」という考えのもと、体罰(虐待)はこの園を創立した以来の伝統だと主張していました。
そして捨てた親が悪いなどと自らの虐待行為を正当化してたと言います。
これから実際に行われていた虐待の数々を紹介しますが、中には気分が悪くなる方もいるでしょう。
それだけひどいことが行われていたことを、心して読んで欲しいと思います。
手に持っているティッシュに火をつける
子供達がなにか悪さをしたとき、注意や指導をするのは当たり前です。
しかし恩寵園では度を越えた注意の仕方をしていました。
園長は祖業の悪さを指導する方法として、火のついたライターを近づけて恐怖を与えていたというのです。
さらに、子供がひっかき傷を押さえるのに持っていたティッシュに火を着けたんだとか。
しかも笑いながら火を着けたそうです。
男子園児の性器にハサミをあて出血させる
じゃれあっていた男の子3人を叱り際、保母室でズボンを脱がせた園長ははさみで性器を切りつけ出血させたことがあります。
園内には悲痛な叫び声が響きわたったそうです。
実際に気を失った子もいたと言われています。
話を聞くだけでも子供達の悲痛な叫び声が聞こえてくるような残酷な虐待ですね。
園長は素手で暴力を振ることが多かったと言われていますが、次第に物で暴力を振るうことも増えていったようです。
廊下に血だまりができることもあったのだとか。
鶏の死骸と一緒に寝させられる
ある日、園で飼育していた鶏を飛ばせようと遊具の上から落として死なせてしまった子供がいました。
園長はその死骸をタオルにくるみ、子供に同じベットで寝るように命じました。
子供がどんなに悪いことをしたとしても、この指導方法は異常すぎます。
朝鮮人の園児をなじる
恩寵園で生活していた子供野中には、日本名を使い朝鮮人であることを隠していた子供がいました。
園長らは朝鮮出身であることがわかると、朝鮮人であることをだなじり度々泣かせていたと言います。
子供が泣くとその姿も揶揄していたんだとか。
身体的暴力だけでなく、差別という精神的暴力も行われていたことがわかります。
園児を乾燥機に入れ回す
子供が悪さをするとお仕置きとして「乾燥機部屋」につれていき、熱くなった乾燥機の中に閉じ込めたり、そのまま回していたこともわかっています。
ここまでくると躾やお仕置きではなく拷問ですね。
のような卑劣な行為も時には行われていたことがわかります。
園児の前で足を切り出血させる
とある子供は姉から貰ったミサンガを大事にし、園の中でも外さずに生活していました。
他の子供たちを一同に集め、机の上に園児を寝かせると包丁でミサンガを切りました。
その際、子供の足を切断をする真似をし、出血させたと言います。
集められた園児の中には足を切られた子供の姉もいました。
大勢の前で見せしめのように行われた行為は、切りつけられた子供だけでなく、その姿を見ていた姉や他の子供すべての心を深く傷つけるものでした。
園児の髪の毛をバリカンで刈る
時に園長は、子供の頭をバリカンで刈ってしまうことがあったそうです。
それは散髪のためではなく、子供を罰するためです。
問題行動をした子の髪をわざとハート形や星型に剃り残し辱めていたのです。
バリカンで髪型を変えられた子供は、しばらく学校を休まざるを得ませんでした。
そんな時は学校に「風邪をひいた」と嘘の連絡をし、虐待がバレないように工作していました。
冬場に裸で池に入らせる
真冬に子供たちを裸で池に入らせるという虐待行為も行われていました。
また、雨が降り肌寒い日に屋上から降りられないようにし、下着姿のまま正座させたこともあったといいます。
24時間ずっと正座させる
問題行動をした子供には、24時間正座させ反省を促していたという園長。
その間、子供は24時間飲まず食わずで寝ることも許されず、トイレにも行かせて貰えませんでした。
子供が「トイレに行きたい」と言うと、その場に新聞紙を敷いて他の子供が見ている前で排泄することを強要しました。
真っ暗な部屋に閉じ込めて精神的苦痛を与える
幼い子供が悪い事をした時には、乾燥部屋のさらに奥にある真っ暗な部屋に閉じ込めたんだとか。
そして部屋の外から、壁や扉をガンガンと叩き、子供の恐怖を煽っていたそうです。
子供はあまりの恐怖に失神寸前だったと言います。
匿名で恩寵園の虐待を通報する電話で事件が発覚
20年以上続いてきた虐待は、1995年に初めて事件化しました。
匿名で「恩寵園で虐待が行われている」との通報があったのです。
これにより千葉県の児童相談所が調査を行いました。
ここで虐待の事実が認められたのですが、恩寵園への指導という形のみで行政処分などは一切ありませんでした。
そのため、その後も同様に虐待が続くことになり、結果として何も変わりませんでした。
職員が一斉退職し子供達が逃亡する
そうした状況に耐えかねて、子供達を守ろうとしていた職員たちが抗議をするために一斉に一時退職をします。
職員たちは以前から園長に注意したり、止めようとしていましたが聞き入れられませんでした。
一斉に一時退職をすることで行政側が事件を重く見てくれるだろうと考えたようです。
自分たちを守ってくれた職員が退職してしまったことから、13人の子供達が恩寵園からの脱走を図ります。
千葉県の最悪の対応が浮き彫りに
こうして逃げだした子供達は千葉県の4か所の児童相談所へ逃げ込みました。
そして虐待の事実を話し、園長の大濱浩を辞任させようと動きますが千葉県の児童相談所は何も動きませんでした。
千葉県側は虐待の事実を否定し、園長に対する口頭指導のみを行い、脱走した子供達と退職していた職員をすべて恩寵園に戻したのです。
結果として恩寵園では地獄の日々が再度訪れ、実態として虐待はなくなりませんでした。
そうした状況から子供達は自ら「子ども自治会」をつくって千葉県庁に手紙を書くなど働きかけをしました。
しかし、こうした切実な訴えも決して届くことはなく、返事の手紙には「健康に気を付けて」と見当違いの一言が添えてあったんだとか。
千葉県側のあまりにもずさんだ対応が浮き彫りになります。
息子と主任保母以外が一斉退職する
そして1996年10月に決定的事件が起きることになります。
ある1人の子供が過度のストレスから壁を叩き「ここにいたくない」と叫んだところ、園長は「壁を壊す気か」と激怒し、その子供の顔面を思いっきり殴りました。
これには周りにいた職員も声を上げますが、園長は「殴ってない」としらを切りました。
この時、主任保母も「暴れていてたまたま手が当たっただけ」と園長を庇いました。
職員たちは、全く反省しない園長やそれを庇う旬の保母の姿に疲れ切ってしまいます。
1996年の年末からの約1ヶ月間の間に、次々と辞職し1997年の3月には、主任保母と園長の息子である大濱晶を除く全職員が退職しました。
虐待をしていた犯人は園長だった?
虐待をしていた犯人は4人です。
主に虐待を行っていたのは園長である大濱浩とその息子の大濱晶です。
さらに、大濱浩の妻の大濱陽子と主任保母の林ルリ子は、大濱浩らの暴力を黙認していました。
女性ふたりは子供達を言葉で痛めつけていたようです。
恩寵園にいた14歳の女の子が千葉県知事に宛てた手紙には、4人の首謀者について次のように書かれていました。
- 大濱浩:人をいじめる・なぐる・言葉でいじめる
- 大濱陽子(妻):自分の意志で動かない
- 大濱晶(息子):気にいらない人をいじめる。女子にHなことをする。
- 林ルリ子:昔の人と今の人を比べる
恩寵園には最高責任者の理事長がいました。
この理事長職は園長・大濱浩の実兄の田中衛が務めていました。
恩寵園は同族経営で成り立っていたため、内部から虐待を止めることはできない状態だったのです。
園長はサイコパス!?精神的な支配がヤバい
園長はちょっとしたことで激昂する性格だったそうです。
切れると手当り次第に物を投げるため、ハサミや刃物などを近くに置かないように職員達は気を配っていたんだとか。
職員達は園長の機嫌を損ねない様に常に気を張っていたと言います。
職員が虐待について注意すると、園長は「あなたたちの指導が悪いからこうするしかない」と注意した職員を強く責めました。
そして子供達に八つ当たりすることもあったため、職員達も強くは言えなかったようです。
意見に従わない職員を自主退職に追い込む?
恩寵園では、園長がすべてでした。
園長は自分に従わない職員には「やめればいい」と圧力をかけていました。
どんな意見や報告が上がってきても、園長にとってはすべて「批判」であったため、子供達でそのストレスを発散していたようです。
「ひぐらしのなく頃に」のモデルに?
漫画化やアニメ化、実写映画化など様々なメディアミックスが行われた人気ゲーム「ひぐらしのなく頃に」。
作品内には「空の家」という孤児院が登場します。
この孤児院で起きた虐待の数々が、この恩寵園事件を彷彿させるものであることから作品の設定モデルになったと言われています。
恩寵園で育った人の壮絶な体験談
かつて恩寵園で生活していた男性は、インタビューで虐待の実態や事件について赤裸々に語っています。
小島さんという男性は2歳の頃に恩寵園に預けられ、18歳で卒園するまで16年間恩寵園で暮らしてきました。
ここからは、園長大濱浩や恩寵園での生活について紹介していきます。
園長の大濱浩について
恩寵園はもともと、大濱浩の父親が作ったものです。
創設者である前園長・大濱魁は戦災孤児のための施設として1946年に恩寵園を作りました。
当初は寺子屋のような形で運営が始まり、1952年に現在のような児童養護施設になっています。
児童福祉に熱心だった素晴らしい人物を父に持つにもかかわらず、大濱浩はなぜ虐待行為を行っていたのでしょうか。
それは寂しさや嫉妬心から来るものであったのかもしれません。
大濱浩は父親が施設の子供達を優先し、実の子である自分を蔑ろにしていることに強い不満を抱いていました。
二の次にしていることに不満を持っており、施設の子どもに対して激しい嫉妬心を持っていたと言います。
嫉妬心が憎しみに変わり、子供達に仕返しをするようになったのではないでしょうか。
大濱浩の妻について
大濱浩の妻もかなり悪知恵が働く人だったと小島さんは語っています。
恩寵園は児童保護施設ということもあり、お菓子や洋服、お金を寄付してくれる人が一定数いました。
しかしそうした寄付はすべて大濱浩の家族の懐にしまわれました。
子ども達にまでいきわたることは決してなかったそうです。
大濱浩の息子もヤバい?強制わいせつ罪に?
大濱浩の息子である大濱晶は小さい女の子が好きだったそうです。
小島さんの証言によると、大濱晶は大学の同級生を連れて夜中に女子部屋に忍び入り、女の子に性的ないたずらをしていたんだそう。
園長の息子という立場を利用した上、日頃から「時期園長は俺だ」とアピールしてたため、誰も逆らえませんでした。
寝ている女の子に対する卑劣な行為などから強制わいせつ罪という判決が出ています。
恩寵園の生活がまるで刑務所?
恩寵園で生活を経験した小島さんは、一日の流れについても明かしています。
まるで刑務所のようなタイムスケジュールだったそうです。
- 5:30 起床
- 6:00 マラソン
- 7:00 朝食
- 7:30~15:00 学校
- 16:00 掃除
- 17:30 風呂
- 18:00 夕食
- 19:00 自由時間
- 20:30 就寝
小島さんは自由時間でも「テレビを見た記憶がない」と語っていました。
いかに制限された生活だったのかが伺えます。
恩寵園事件の終わり方が衝撃的!?
恩寵園事件は裁判にまで発展し、実刑判決が出ましたが、結局は救いのないものでした。
恩寵園からは一切謝罪の言葉はなかったのです。
さらに、子供達への示談金は数十万程度しかありませんでした。
【狂気】恩寵園事件の内容がヤバすぎる?園長や息子の現在とは!?まとめ
今回は児童虐待事件である恩寵園事件の全貌を紹介しました。
恩寵園ではあ約20年にわたり、残虐な児童虐待が日常的に行われていました。
家族経営であったことと、千葉県や児童相談所のずさんな対応により解決が遅れたこともわかっています。
現在は新体制で健全な施設になっていますが、被害者の多くは今でも苦しみを抱えて生きています。
今後このような悲惨な事件が起きないことを願うばかりです。