【市川一家4人殺害事件】関光彦の生い立ちがヤバい?最後の言葉や実名と実家も紹介!

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皆さんは”市川一家4人殺人事件”について覚えているでしょうか?

犯人の関光彦(せきてるひこ)は、当時19歳という若さにして、死刑判決を言い渡されました。

この事件は、関光彦が強盗目的で他人の一家4人を殺した残虐な事件です。

なぜこのような事件が起こってしまったのか、加害者である関光彦の生い立ちや犯行に至るまでの経緯、有名な「最後の言葉」について解説していきます。

【閲覧注意】市川一家4人殺害事件とは?犯人の関光彦は当時19歳?

まず最初に、一家4人殺人事件に至った流れを見ていきましょう。

フィリピンパブの女性2人を監禁・暴行(1992年2月6日)

店先の経営者が激怒し、暴力団を雇い賠償金を関光彦に請求(1992年2月)

通行人の少女(長女)を誘拐・強姦(1992年2月12日)

計画的犯行を目論んで、少女の家族を4人殺害(1992年3月5日)

再度少女(長女)を強姦・次女を殺害(1992年3月6日)

加害者・関光彦を逮捕(1992年3月7日)

当時、関光彦は19歳の未成年である事が分かっています。

上記では時系列を挙げていますが、分かりにくいので下記にて詳しく見ていきましょう。

少女を騙して強姦

1992年2月12日午前2時頃に、被害者家族の長女(当時15歳)がシャーペンの芯を買いにコンビニへ出かけました。

長女は自転車に乗っていたわけですが、自動車と衝突してしまいます。

自動車に乗っていた関光彦が「病院に連れていくよ」と言って、病院へ連れていきました。

その後、自宅アパートへ連れていき強姦したとのことです。

これから、この長女は関光彦に利用される事になります。

少女の一家4人を惨殺

1992年の3月5日午後4時ごろ、計画的犯行を目論んで長女の自宅に侵入し家族4人を殺害します。

”計画的犯行”というのは、暴力団へ賠償金200万円を支払うために行われた強盗の事です。

事故を機に誘拐された長女はその後、関光彦が外出している隙を見て逃げる事に成功しました。
しかし、関光彦は長女から学生手帳と現金を奪っていたため、すぐに彼女の住所を特定してしまいます。
その後、長女の家に電話して留守である事を見計らい家に侵入しました。
侵入した際に家に居たのは祖母だけで、関光彦に殺されてしまいます。
その後帰ってきた長女の母親と父親も、関光彦に殺されてしまいました。
母親と帰ってきた長女は殺されずに、なんと犯人に脅されて遺体の処理をさせられたのです。

家族4人はどのようにして殺されたのか?

祖母→犯人が侵入したときからいて、恐喝されるも拒否し絞殺される

母親→長女と次女一緒に帰ってきた際に恐喝され、床に突っ伏した状態刺殺される

父親→帰宅したときに背後から刺殺される

次女→泣いたため刺殺

次女の場合、殺そうとはしてませんでしたが突如泣き出したので殺害したようです。
自分の都合のために一家を殺害してしまうなんて、残虐非道すぎますよね。

事件中に少女を何度も強姦

現金を盗む事に成功した関光彦は、その場で何事もなかったように長女と一緒に食事を済ませます。

食事を済ませた後も、何度も長女を強姦したといいます。

その後はお金に対する欲が高まり、翌日長女に父親の勤務先から通帳を取ってくるように言います。

父の勤務先である事務所に長女が訪れたとき、従業員が彼女の不審な行動に違和感を覚え警察に通報しました。

それから、関光彦が自身の自宅で長女を殺そうとした際に警官隊が押し寄せてきます。

警官隊が関光彦を抑えたため、長女の命は無事助かりました。

強姦と監禁を繰り返され、関光彦と長い時間関わっていた長女が助かったことだけが幸いです。

関光彦の生い立ちとは?素顔や実家も解説!

市川一家4人殺人事件の詳細について解説しました。

フィリピンパブのホステスを監禁したことから事件の成行が始まりましたが、なぜそのような事を犯したのか気になりますよね。

それには犯人・関光彦の家庭が複雑で、良識のない人間に育ってしまった事が原因”だと言われています。

関光彦がどのような人物なのか、生い立ちを見ていきましょう。

実家はうなぎの加工販売会社?

関光彦が生まれたのは1973年の1月30日で、両親と弟の4人家族でした。

実家は千葉県千葉市にあり、彼の父親は祖父の代から続くうなぎの加工販売店を経営していたようです。

複数のうなぎの加工販売店を展開していて、年商10億にまでのぼる人気店でした。

関光彦の父親は結婚前にサラリーマンを1年で辞め、うなぎ屋の娘と結婚します。

関光彦の父親が母親の両親に結婚挨拶をした際、「仕事に対する熱意がない」と祖父は大反対していた事もあったようです。

祖父がそのような言葉を放ったのは、父親の人間性を見抜いていたからだと言えるでしょう。

父親がDV夫に豹変?借金まみれで愛人と豪遊?

関光彦の父親の人間性は低く、酒やギャンブルに溺れるような人間だったようです。

そして、家族に対する暴力も絶えなかったようで兄弟にまで及ぶほどでした。

父親が母親に対して、水の張った浴槽に頭を何度も押し付けている姿を関光彦は目の前で見ています。

その他にも殴る・蹴るなどの暴力を子供にまで絶え間なくふるい続けた挙句、祖父のお金を使っては1億以上の借金生活を送っていたようです。

また、父親の影響から伝播し母親までが子供たちに手を出すようになりました。

「手を洗え」と何度も強く言ったり、時には平手打ちをされることもあったようです。

関光彦は父親を最も憎んでいた?

父親の虐待エピソードはその他にも、子供たちに何時間も正座をさせたり食事を与えなかったりしたこともあるようです。

その他にも徹底的に無視をしたり、真冬に外へ立たせたりなど酷い仕打ちを受けたといいます。

暴力を受けていた関光彦は、当然の如く父親を恨んでおり、事件後の死刑の際にこのような言葉を放ちました。

この世で最も憎い人間。
生まれつきの詐欺師、殺人鬼育成マシーン。
叶うなら僕と一緒に死刑台に吊るしたい。

このように関光彦を悪に染めた父親に対する彼の言葉となります。

家庭環境がどれだけ子供の道を左右するのかが分かる話ですよね。

両親離婚後に3億の借金を抱えて不良へ?

関光彦が小学3年生になった時、父の作った借金は益々膨れ上がり3億にまで上りました。

借金生活に耐える事の出来なくなった母親は家を抜け出し、子供2人を連れてアパートで生活する事を決意します。

彼が小学4年生になったときには両親は離婚していて、当時母子家庭の支援制度もなかったために生活はとても苦しい状況だったようです。

家庭内では苦しい生活を強いられ、学校ではイジメを受けていた事もありました。

「臭い」「汚い」などの暴言を同級生から言われ、何度か転校も繰り返しています。

それが原因で、中学生からグレてしまったようです。

因みに3億円の借金は、祖父が全て返済したそうです。

窃盗に暴行?祖父を失明させたことも?

中学生になった関光彦は、同じ不遇な環境で育った仲間達とつるむようになります。

飲酒やタバコ、シンナー等薬物にまで手を出していたようです。

学校では真面目な優等生を演じていたものの、裏では暴力や恐喝事件を繰り返していました。

小遣いの欲しさに賽銭箱の中からお金を盗んだり、浅草の繁華街などでかっぱらいをする日々を過ごしました。

彼の遊び癖は止まらなく、祖父の店にまで乗り込んで売上金120万円を盗んだほか、そのわずか1か月後に更に6万円を盗んだといいます。

この事実を祖父にバレて問い詰められた関光彦は、顔面を蹴って片目を失明させたのです。

彼は幼い時に祖父から色々恩恵を受けていましたが、それが仇となってしまったようです。

関光彦の最後の言葉とは?事件のその後について解説

19歳という若さにして処刑判決を言い渡された関光彦。

死刑判決を言い渡された時には、なぜか驚きと悲しみといった感情を見せたようです。

関光彦は死刑が決まった時、家族には最後の言葉を残していました。

刑務所内での彼の様子について、詳しく見ていきましょう。

関光彦は釈放されると思っていた?

当時まだ19歳だった関光彦ですが、あまりにもむごすぎる犯行内容から死刑判決を言い渡されます。

コンクリート殺人事件の事例もあるように、彼は人を殺しても執行されないと思い込んでいたようです。

女子高生コンクリート詰め殺人事件は、1988年11月から1989年1月の間に発生した猥褻略取誘拐・監禁・強姦・暴行・殺人・死体遺棄事件の通称である。
引用:Wikipedia

彼の中での解釈としては、”殺人を犯して出所した人がまた同じ事を繰り返す事”が死刑に至る条件だと勘違いしていました。

未成年の自分がどんな大罪を犯しても死刑にされる事はないと思い込みしていたようです。

出所後を見据えて勉強も?

処刑を言い渡される前までは、釈放されると信じていた関光彦。

出所後の生計を立てていくために母親から参考書や教材を仕送ってもらい勉学に励んでいたようです。

取り調べをしていた刑事によると、彼の生活に対してこのような言葉を述べています。

関は三度のメシを腹一杯食い、夜は大いびきをかいて熟睡していた。
あんな殺人犯は見たことがない。
人間じゃない

刑事も彼の反省のない態度に呆れていたようですね。

2017年に死刑執行?

関光彦は19歳という未成年であるにも関わらず死刑判決を言い渡され、平成29年(44歳)に執行されました。

死刑判決から25年という長い年月が経っていますね。

選挙権は18歳にまで引き下げられたわけですが、それと同時に死刑制度も厳罰化しようとする世間の動きもあります。

少年の残虐な殺人事件に対する少年法への批判の声も多数挙がっているようです。

関光彦の最後の言葉とは?

死刑判決を言い渡された関光彦は、面会中家族に対して逆恨みしたり傲慢な態度を取ったりしていたようです。

また、今まで優しく接してきた祖父に対しても罵詈雑言を書き連ねています。

そして、留置所の生活がどれだけ苦しいものなのか生々しいメッセージがありました。

書き残されたメッセージの詳細は以下の文です。

死刑囚になっても当分は生かされる事になるとなります。

懲役となって仕事をするわけでもなく、ただ鉄格子の中で待つしかありません。

そして何年かして平静を取り戻したとしても、朝刑務官が自分の房へ立ち止まるわけです。

独房の錠を回して金属音が響いたところで、「刑を執行する」と言われ連れていかれる事になります。

私はこの先、刑の執行が今日か、明日かと震えながら生きていくのです。
引用:Youtube

そして、死刑最後の遺書にはこのような事が書かれていました。

事件発生から25年、死刑確定から16年の時が過ぎた。

関光彦死刑囚は死刑執行直前、弁護士宛に最後の言葉として「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた。
引用:NewSee

被害者に対する謝罪もなく、この言葉にはどのような思いがあって書いたのかが分かっていません。

しかし、20年以上たっても罪を犯してしまったという反省がないのは確かですね。

事件に関する漫画や書籍は出てる?

市川市一家4人殺人事件に関する漫画はありませんが、書籍はあるようです。

祝康成さんが書かれた書籍で、関光彦の生い立ちから死刑という破滅までの軌跡が書かれた本となっています。

タイトルは「19歳の結末 一家4人惨殺事件」で、被害者の幸せな家族と加害者の不幸な家族を対比している場面が多く事件を社会的に捉えて書いてるようです。

人間の不可解さを炙りだし、少年犯罪者の核心を抉る本書となっています。

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関光彦が起こした市川一家4人殺害事件と生い立ちが凄惨だった

これまでに、関光彦が起こした一家4人殺害事件の内容について解説しました。

内容をまとめると以下の通りです。

  • 関光彦は複雑な家庭で育ち、父親からの暴行が絶えない日々を送っていた
  • 事件のきっかけはフィリピンパブの女性を監禁したことから始まった
  • 一家4人を殺そうとしたのは、暴力団への借金返済のため
  • 死刑判決の後も、反省の色を見せる事はなく憎しみの感情だけが彼に残っている

今後、このような事件が発展しないことを祈るばかりです。