奇跡的に生き残った4名の生存者たちですが、その数奇な運命からか事故直後は好奇の目線が多かったとされています。
そして好奇だけでは済まずに、遺族や一般の方からも嫌がらせを受けたりしたなど苦労があったようです。
生存者の中には今でも慰霊碑に祈りをささげる様子が報道されるなど事故を風化させないよう尽力されている方もいらっしゃるようでインタビューではその後の生活が語られています。
生存者の方たちはその後どういった生活をされているのでしょうか?
座席番号60D 「川上慶子」
機体の最後列に座られていた川上慶子さんは事故当時12歳で救助後はすぐさま国立病院へ搬送されました。
治療後には祖母と兄のいる島根県で生活をされたそうですが、いたずら電話が鳴りやまなかったり嫌がらせを受けたり苦労の絶えない日々だったようです。
その後はスキューバダイビングのためにアメリカへ渡った際に出会った男性と結婚をしたとのことです。
座席番号56C「落合由美」
日本航空のアシスタントパーサーだった落合由美さんは当時26歳で帰省のためJAL123便に搭乗していたそうです。
救助時には顔面挫創、左上腕前腕骨折、骨盤骨折、全身打撲とボロボロの状態でしたが、処置のかいあって回復し再び日本航空での仕事を再開したとのこと。
その後の生活ぶりは多く報じられることはありませんでしたが、あるインタビューでは家族とともに幸せに暮らしていると答えていたそうです。
座席番号54D「吉崎博子」
後述の吉崎美紀子さんの母親の吉崎博子さんは当時34歳で飛行機には家族4人で搭乗していたそうです。
ご主人と長男は事故で亡くなられてしまいました。
日常を取り戻した後は平穏に暮らしたとされていますが、詳しい情報までは出回っていません。
座席番号54F「吉崎美紀子」
吉崎博子さんの娘にあたる吉崎美紀子さんは当時8歳で博子さんと隣同士の座席で生き残りました。
救出時には足や顎を怪我した状態で発見され病院へ搬送。
その後無事に一命を取り留めインタビューなどでははっきりとした口調で話しをしている様子がうかがえました。
母親の博子さん同様に情報は少ないのですが、お二人とも日常を取り戻したようでした。
生存者は度重なる取材などの嫌がらせを受ける
奇跡的に生き残った方々は注目の的となりました。
興味を持たれる人が多ければ多いほど、マスコミの取材も当然熱が入ります。
早朝深夜問わず押しかけてくる取材陣や鳴りやまない電話に悩まされていたようです。
恐ろしい事故を思い出すだけでも苦痛でしょうが、時間も問わずまとわりつかれる生存者の心境は想像以上に苦しいものだったことでしょう。
相手はマスコミだけではなく遺族の方からのバッシングや一般の人からの嫌がらせ行為なども受けていたようです。
生存者ではありませんが、日本航空の地上係員として働いていた伊藤由美子さんは別の苦悩を抱えていました。
当時の伊藤さんは出発ロビーのカウンターでチケットの予約・販売を担当していたようです。
123便は満員の予定でしたが、急遽空きが空きができたことで何名かの乗客を案内しました。
結果、案内した人たちが乗った123便は事故に遭い、送り出した人々は亡くなってしまったのです。
「日常的に行っている当たり前の仕事ではあったんですけども、事故が起きたと知った時は『あんなお声がけしなければよかった。そうしたら123便に乗り換えなくてもすんだかもしれないのに…』という思いでいっぱいでした」
伊藤さんはこの時の経験を活かし、パイロット訓練生を相手に事故について伝え続けていました。
日航機墜落事故に乗っていた芸能人と乗るはずだった芸能人とは?
JAL123便に搭乗していた芸能人もいたことで、当時のニュースでも連日話題になりました。
またその一方でに「同便に搭乗予定だった」芸能人もいるようです。
詳しくみていきましょう!
搭乗していた芸能人:坂本九
特に話題に挙がるのが歌手の坂本九さんです。
「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」など数々のヒット曲を世に送り出した彼ですが、元マネージャーの選挙応援として事務所開きに駆けつける途中だったとのことです。
いつもなら全日空(ANA)を利用するはずがたまたま日本航空を利用することとなり事故に巻き込まれてしまったのです。
搭乗していなかった芸能人①:明石家さんま
お笑い界のレジェンド明石家さんまさんはスケジュール通りであれば、JAL123便に搭乗する予定だったというのは有名な話です。
東京での収録のあと、大阪のレギュラー番組出演のため飛行機を抑えていたのですが収録が早めに終わったためフライト時間の早い便に振り替えたそうです。
もしも予定通りのスケジュールで収録が進んでいたのならば、明石家さんまさんも事故に巻き込まれていたかもしれません。
娘のいまるの名前の由来にも
さんまさんの座右の銘でもある「生きてるだけで丸儲け」という言葉は日航機墜落事故を経た経験から出てきた言葉ではないかと言われています。
そして娘のいまるさんの名前はこの言葉から「生きての”い”」と「丸儲けの”まる”」を取って名付けられたそうです。
搭乗しなかった芸能人②ジャニー喜多川
ジャニーズ事務所の創業者としてだけでなく、強運の持ち主としてもジャニー喜多川さん。
和歌山大空襲では避難する予定だった場所にたどり着けなかったおかげで難を逃れたり、自宅のエレベーターで4日間閉じ込められても生き残ったり、数々の逸話が残っています。
彼もまたAL123便に搭乗する予定でしたが、仕事の都合でキャンセルをしたことで事故を免れました。
搭乗しなかった芸能人③稲川淳二
怪談と言えば稲川淳二さんと連想するくらいに有名ですよね?
実は稲川淳二さんもJAL123便に搭乗予定でしたが、立っていられないほどの体調不良に見舞われてしまい移動が困難になり、翌朝に新幹線で大阪に向かったそうです。
この話は彼の怪談でも取り上げられており「生涯忘れることができない出来事」として語られています。
搭乗しなかった芸能人④当時の笑点メンバー
当時の笑点メンバーたちもJAL123便に搭乗していたかもしれないのだそう。
そのメンバーはコチラ!
- 5代目三遊亭圓楽
- 桂歌丸
- 林家こん平
- 林家木久扇(当時:林家木久蔵)
- 三遊亭小遊三
- 6代目三遊亭円楽(当時:楽太郎)
- 7代目桂才賀(当時:古今亭朝次)
- 山田隆夫
徳島の阿波踊りに参加するスケジュールだった彼らは徳島行きの飛行機を予約していました。
しかし、徳島行きの便が大幅に遅延し、さらに徳島空港が悪天候に見舞われていたこともありJAL123便に乗り、大阪から神戸へ移動、そこからフェリーに乗る案が出ました。
結局は予定通り徳島行きの飛行機に乗ることになったため、JAL123便には乗らなかったそうです。
搭乗しなかった芸能人⑤舛添要一
厚生労働大臣や東京都知事など歴任した舛添要一さんも事故に巻き込まれなかった一人とされています。
詳しいエピソードは語られていませんが、予約をしていたものの搭乗しなかったことで事故に巻き込まれなかったようです。
その他ほかにも多数の芸能人が搭乗予定だった
紹介した方以外にも多くの有名人がJAL123便へ搭乗する予定でした。
ある意味では生存者となる彼らも偶然が重なって搭乗を取りやめたり、違う便に乗り換えていたりして事故を回避しました。
日航機墜落事故の生存者はなぜ助かったのは奇跡!
ここまで日航機墜落事故について深掘りしてきました。
高所から高速で地面にぶつかるのですから衝撃は想像を絶するものであり、燃料を積んでの飛行のため同時に火災が起こる可能性も高いです。
当事故では大規模な事故であったにも関わらず、さまざまな幸運が重なり、4名という少数ですが生存者がいました!
以来日本での旅客機事故は起きてないという航空業界の努力の積み重ねを感じつつ、この事故を風化させず語り継いでいきたいですね。