1985年8月12日に発生した史上最悪の航空機事故である”日航機墜落事故”。
単独の航空機が起こした事故では市場最多、520名の尊い命が犠牲になりました。
生存者はわずか4名だと言われており、驚くことに全て女性だったのです。
ですが、「機長はすごいことをした」という噂もあります。
今回は生き残った生存者たちがなぜ助かったのかについて詳しく見ていきます。
日航機墜落事故とは?悲惨な事故の真相
史上最大の航空機事故として知られている日航機墜落事故。
事故から30年経った今も、風化させてはいけないと取材を続ける人がいます。
悲惨な事故の概要について確認しておきましょう。
日航機墜落事故(日本航空123便墜落事故)の概要
事故のあった日本航空123便は、JAL123便として羽田空港を18時00分に出発。
18時56分には伊丹空港に到着する予定でした。
出発からしばらく経った18時24分頃、機長が「まずい、なんか爆発したぞ」と発言。
生存者によると、客室では衝撃音が響いた直後に酸素マスクが下りてきたと言います。
その後、操縦不能に陥った123便は管制室とのやり取りも虚しく18時56分に墜落。
墜落した場所は群馬県多野郡上野村の山中でした。
事故の原因は機体後部圧力隔壁の破壊だと言われています。
大量の空気が流出し、圧力隔壁の後ろにあった集中油圧制御装置と補助エンジンを破壊。
さらに、垂直尾翼のボックスビームを破壊したため、垂直尾翼構造のほとんどが失われました。
異常発生から3分足らずで、航空機関士が「ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全て喪失)」と発信しています。
油圧の喪失により操縦不能状態に陥った123便は、不安定な飛行を続けていたようです。
日航機墜落事故の生存者はなぜ助かったのか?その理由とは?
日航機墜落事故では524名のうち生存者はたったの4名でした。
この日は夕方の帰宅ラッシュやお盆の帰省ラッシュにより、ほぼ満席で羽田空港を離陸しています!
墜落時には時速700km近くのスピードにまで到達しており、地面に叩きつけられた機体は大破しました。
こんな絶望的な状況ですが、生存者4名はなぜ助かることができたのでしょうか。
さまざまな検証が行われた結果、ある共通点が見つかりました!
日航機墜落事故の生存者が助かった2つ理由とは?
類を見ない史上最悪な航空機事故とされ、事故調査は徹底的におこなわれました。
航空機事故の原因や対策を導き出すなかで、生存者の共通点が見つかっています!
生存者はなぜ助かったのか?その理由を詳しく見ていきましょう。
生存者の共通点①機内の後部座席の中心近くに座っていた
日航機墜落事故で墜落した飛行機はボーイング747という機体で、当時大型旅客機としては最大級の大きさでした。
事故当日は524名が搭乗していましたが、生存者4名全員が飛行機後方の中心近くの座席に座っていました!
機体は墜落時に右主翼が山の稜線にひっかかったことで、機体が前のめりになりながら裏返しになりました。
さらにその衝撃で機体の前方と後方が分離、それぞれ異なる軌道を描きながら落ちていったそうです。
前方部分は高速度のまま地面へ激突した衝撃は凄まじく、エンジンのある主翼も前方にあったことからガソリンに引火、爆破炎上しています。
操縦士、機関士を含む前方の搭乗者に生存者はいませんでした。
一方後方部分は山の斜面を滑り落ちるような形で地面へ接触したことにより、いくらか衝撃が和らげたそうです。
そのため後方部は二次的炎上がなかったことも特徴的であるといえます。
生存者の共通点②女性や子供であった
後ほど詳しく生存者の方々にフォーカスしますが、4名の生存者は女性や子供でした。
女性や子供は一般的には成人男性と比較して身体に柔軟さがあるといわれています。
今回の事故では墜落時の衝撃をうまくいなすことができたのではないかと考えられているようです!
また単純に「衝撃を受ける体の面積が少なかったたら」なども考察されていました。
生存できた理由は機長とクルーのすごい操縦のおかげ?
最初に異変を確認した爆発音からわずか3分ほどの間に油圧全喪失状態により、全操縦舵故障というのはパイロットにとって致命的な問題です。
危険な状態に変わりありませんがこの状態なら、エンジンによる推力(速度)と主翼にあるフラップの操作により飛行することはできました。
しかしこの事態に水を差したのが、機体後方にある「圧力隔壁の損壊」です。
このことにより機体の姿勢を保つ上で重要な垂直尾翼の6割を失っています。
しかし、当該パイロットである機長の高濱雅己さん、副操縦士の佐々木祐さん、航空機関士の福田博さんの3名は完全に操縦不能で墜落する、その最期の瞬間まで飛行状態を保っていました。
操縦桿でのコントロールが困難になったあとも懸命にエンジンやフラップ、ギアを使ってコントロールをしていたことを考えると相当な技術と精神力を持っていたことがうかがえます。
生き残れたのは奇跡に近い
ここまで生存者の共通点をまとめていきましたが、上記の共通点に当てはまる乗客の方はもっといたはずです。
しかしながら実際に生き残ったのはたったの4名のみ。
生存者の隣に座っていた方は亡くなってしまっていたという証言からも分かりますが、生き残ったことは偶然であり、奇跡ともいえる事態です。
たった一座席違っていただけで明暗が分かれたのですから、なぜ助かったのかと問われれば非常に幸運だったとしかいいようがないかもしれません。
日航機墜落事故の生存者は7名いた!?タブーの男の子の真相も?
ここまで生存者が4名と記載してきましたが、一方で本当は他にも生存者がいたのではといわれています。
これは日航機墜落事故における最大のタブーとして取り上げられる謎です。
事故翌日には救助活動が行われており、その様子はテレビで中継をされていました。
映像の中では少年が救出されたところが映し出されていたようですが、この少年は生存者としてカウントされていないのです。
そしてこの少年は日航機墜落事故において触れてはいけないタブーとして謎のままです。
これ以外にも生存者の証言から事故直後にはまだ生存者がおり、助けを求める声を上げていたとも語られているようです。
果たして本当にほかにも生存者はいたのでしょうか?
日航機墜落事故の生存者は口封じで殺された?タブーの少年の写真とは?
多くの犠牲者を出した日航機墜落事故ですが、この事故にまつわる黒い噂が囁かれているのをご存じでしょうか?
その噂とは事故の原因が「自衛隊の無人標的機を旅客機に当ててしまった」のではないかというもの。
そこで事故を隠すための証拠隠滅、また口封じをするべく前述の少年を含め、他にもいたとされる生存者を殺害してしまったともいわれているようです。
これら事故最大のタブーについては別の記事で深堀りをしました。
日航機墜落事故の高濱機長の遺体が見つからなかった真相とは?
日航機墜落事故の発生した日本航空123便の機長は当時49歳の高濱雅己さんでした。
高濱さんは総フライト時間1万時間を超えるベテランパイロットで、事故当時も懸命に機体を持ち直そうと奮闘した記録が残っています。
墜落寸前まで諦めない姿勢はすごいとしかいいようがありません。
そんな彼の遺体は見つかっておらず、さまざまな憶測が飛び交う原因ともなっています。
一体なぜ高濱機長の遺体は見つからなかったのでしょうか。
発見された高濱機長の遺体は顎と5本の歯のみ?
結論からいえば遺体が見つかっていないわけではなく、ごく一部だけは本人のものと確認が取れているようです。
その一部というのが顎の骨と歯の一部だったのです。
「他の大きめの部位が見つかってもいいのでは?」と考えてしまいますが、どうしても見つからなかったのだそう。
損傷はあれど同じコックピット内にいた他の乗組員は判別可能でしたが、高濱機長は「顎の骨と歯の一部だけというのは奇妙では?」と囁かれているようです!
高濱機長の遺体は隠蔽されたという説も
前述の噂から自衛隊が日航機墜落事故を引き起こしたとされる説から考えると「高濱機長は事故の真相に気が付いていた」のではないかとも想像できます。
そして事故を隠蔽しようとした自衛隊によって遺体は処分されたとも噂されるようになりました。
ひょっとすると高濱機長は救助活動寸前までは生きながらえており、真相を知っている人間だからという理由で秘密裏に殺害されてしまったのではないか?
そうした想像ができるほどに謎が多く、不自然な点が多く見つかる事故なのです。
制服から遺書が抜き取られていた?
こちらの噂も真相は定かではありませんが、高濱機長の着ていた制服には遺書が残されていたとされているのですが、事故現場から見つかった制服から無くなっていたとされる説です。
抜き取られる必要性を考えると、やはり自衛隊の隠ぺい工作と考察することができますが、事故が起きているさなかでペンを持って一筆したためる暇があったのかは疑問です。
高濱機長の遺族が嫌がらせを受ける
高濱機長はご家庭を持たれており、奥様の淑子さんとお子さん3人が帰りを待っていました。
しかし凄惨な事故を経て、ようやく帰ってきたのは、もはや本人とは判断もつかないような顎の骨と歯5本のみでした。
そして高濱機長のご遺族は大切な人を失い、まともに葬送することもできなかったのにも関わらず、さらなる仕打ちを受けていたようです。
それは「人殺し、大量殺人犯」などと世間から非難されるようになってしまったのだそうです。
一般の人からの高濱機長に対する中傷に淑子さんは謝罪を続けたのだそうです。
またマスコミからも執拗な取材が相次ぎ日に日に神経をすり減らしていったといいます。