1995年8月14日に発生した日航機墜落事故。
今もなお航空業界で教訓とされているほどに被害は大きく、単独の飛行機が起こした事故では最多の犠牲者520名がこの世を去ることとなりました。
突然の事故によって家族を失ってしまわれた遺族の方は未だに傷が癒えることがありません。
高速で地面に叩きつけられた機体はバラバラになり、現場はまるで地獄絵図のようだったと語られていますが、この地獄から生き残った方がいることをご存じでしょうか。
巻き込まれれば死亡は免れないと言われる航空機事故でいったいなぜ助かることができたのでしょうか。
その理由について見ていきましょう。
日航機墜落事故の生存者はなぜ助かったのか?その理由とは?
日航機墜落事故では524名のうち生存者はたったの4名でした。
墜落時には時速700km近くのスピードにまで到達しており、機体は当然にバラバラ。また墜落したあとの機体は爆発、炎上をして跡形も無くなってしまっていたといわれています。
こんな絶望的な状況ですが、生存者4名はなぜ助かることができたのでしょうか。
様々な検証が行われた結果、とある共通点が見つかりました。
日航機墜落事故の生存者が助かった2つ理由とは?
日航機墜落事故は今でも事故のモデルケースとして操縦訓練のシミュレーションに用いられる事故となりました。
そのため事故の原因、対策など様々な検証が行われてましたが、その中から生存者の共通点が見つかったのです。
なぜ助かったのか?その理由を詳しく見ていきましょう。
生存者の共通点①機内の後部座席の中心近くに座っていた
日航機墜落事故で墜落した飛行機はボーイング747という機体です。
当時大型旅客機としては最大級の機体で事故当日も524名が搭乗していました。多くの座席がある中で生存者の4名全員が飛行機後方の座席に座っていたのです。
飛行機は墜落時に前方部分と後方部分に分離しました。それぞれ違う軌道で山中に落ちていったわけです。
この前後で命運が大きく分かれることとなったのです。
前方部分は高速度のまま地面へ激突をし機体は爆破炎上をしました。跡形も無くなった機体から生存者など出てくるわけもなく全員死亡。
一方後方部分は山の斜面を滑り落ちるような形で地面へ接触しました。それでもかなりの衝撃を受けたようですが、いくらか衝撃が和らげられていました。
またエンジン部分も前方部分に付随していたため炎上などの二次災害も避けられたものとされています。
生存者の共通点②女性や子供であった
後ほど詳しく生存者の方々にフォーカスしますが、4名の生存者は女性や子供でした。
女性や子供は一般的には成人男性と比較して身体に柔軟さがあるとされています。
そして今回の事故では墜落時の衝撃をうまくいなすことができたのだと考えられています。
生き残れたのは奇跡に近い
ここまで生存者の共通点をまとめていきましたが、524名も搭乗していた飛行機で上記の共通点を含んでいた乗客の方も当然いました。
しかしながら実際生き残ったのはたったの4名のみ。
生存者の隣に座られていた方は亡くなってしまっていたという証言からも分かりますが、生き残ったことは本当に偶然であり、奇跡ともいえる事態です。
たった一座席違っていただけで明暗が分かれたのですから、なぜ助かったのかと問われれば非常に幸運だったとしか言いようがありません。
衝撃!日航機墜落事故の生存者は7名だった?
さてこれまでの記事では生存者が4名と記載してきましたが、一方で本当は別に生存者がいたのではと言われています。
これは日航機墜落事故における最大のタブーとして取り上げられる謎です。
事故翌日には救助活動が行われており、その様子はテレビで中継をされていました。
映像の中では少年が救出されたところが映し出されていたようですが、この少年は生存者としてカウントされていないのです。
そしてこの少年は日航機墜落事故において触れてはいけないタブーとして謎のままです。
これ以外にも生存者の証言から事故直後にはまだ生存者がおり、救助の声を上げていたとも語られているのです。
果たしてほかにも生存者はいたのでしょうか?
日航機墜落事故の生存者は殺された?
多くの犠牲者を出した日航機墜落事故ですが、この事故にまつわるとある黒い噂が囁かれているのをご存じでしょうか。
その噂とは事故の原因が「自衛隊の無人標的機を旅客機に当ててしまった」のではないかというものです。
もしも本当だとすると自衛隊の存亡にも関わる事故となります。そこで事故を隠すための証拠隠滅、また口封じをするべく前述の少年を含めて他にもいたとされる生存者を殺害してしまったとも言われています。
なぜ生存者を助けるのではなく殺さなければならなかったのか?
中継映像に映っていた少年はどうなってしまったのか?
これら事故最大のタブーについては別の記事で深堀をしました。
日航機墜落事故の高濱機長の遺体が見つからなかった真相とは?
日航機墜落事故の発生した日本航空123便を操縦していた機長は高濱雅己という当時49歳の男性でした。
彼は総フライト時間1万時間を超えるベテランパイロットで、事故当時も懸命に機体を持ち直そうと奮闘した記録が残っています。墜落寸前まで諦めない姿勢はすごいとしか言いようがありません。
そんな彼の遺体は見つかっておらず、様々な憶測が飛び交う原因ともなっています。
一体なぜ高濱機長の遺体は見つからなかったのでしょうか。
発見された高濱機長の遺体は顎と5本の歯のみ?
結論から言えば遺体が見つかっていないわけではなく、ごく一部だけは本人のものと確認が取れているようです。
その一部というのが顎の骨と歯の一部だったのです。
なぜ高濱機長の遺体の一部だと判断できたのかというと、歯科でのカルテから高濱機長のものだと確認が取れたからだということです。
現場を確認できたわけではない以上、想像することしかできませんが見つかった遺体が顎の骨と歯5本だけというのは少々不自然に感じてしまいます。
いくら爆発や炎上が凄まじいものだったとは言え顎の骨だったり歯は見つかるのに他の大きめの部位が見つからなかったのはなぜでしょう。
どうやら、同じコックピット内にいた乗組員は損傷はあれど判別ができるものだったとされていますし、高濱機長だけというのは奇妙ではないでしょうか。
高濱機長の遺体は隠蔽されたという説も
前述の噂から自衛隊が日航機墜落事故を引き起こしたとされる説から考えると「高濱機長は事故の真相に気が付いていた」のではないかとも想像できます。
そして事故を隠蔽しようとした自衛隊によって遺体は処分されたとも噂されるようになりました。
ひょっとすると高濱機長は救助活動寸前までは生きながらえており、真相を知っている人間だからという理由で秘密裏に殺害されてしまったのではないか?
そうした想像ができるほどに謎が多く、不自然な点が多く見つかる事故なのです。
制服から遺書が抜き取られていた?
こちらの噂も真相は定かではありませんが、高濱機長の着ていた制服には遺書が残されていたとされているのですが、事故現場から見つかった制服から無くなっていたとされる説です。
抜き取られる必要性を考えるとやはり自衛隊の隠ぺい工作と考察することができますが、事故が起きているさなかでペンを持って一筆したためる暇があったのかは疑問です。
ただし、走り書きなどでなおかつ事故の真相に触れるような内容だったとするならば自衛隊に抹消されたというのも無い話ではないかもしれません。
高濱機長の遺族が嫌がらせを受ける
高濱機長はご家庭を持たれており、奥様の淑子さんとお子さん3人が帰りを待っていました。
しかし凄惨な事故を経て、ようやく帰ってきたのはもはや本人とは判断もつかないような顎の骨と歯5本のみでした。
そして高濱機長のご遺族は大切な人を失いまともに葬送することもできなかったのにも関わらず、さらなる仕打ちを受けていたようです。
それは人殺し、大量殺人犯などと世間から非難されるようになってしまったのだそうです。
一般の人からの高濱機長に対する中傷に淑子さんは謝罪を続けたとのこと。淑子さん自身もつらい状況にも関わらず一件一件真摯に対応していったというのはすごいですね。
またマスコミからも執拗な取材が相次ぎ日に日に神経をすり減らしていったといいます。