【池田小学校事件】逃げた教師に大バッシング?犯人の現在や真相を徹底調査!

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池田小学校事件は、日本犯罪史上でも類を見ないほどの残酷な無差別大量殺人事件です。

当時池田小学校事件を発端に、学校でのセキュリティが大きく見直されるきっかけにもなりました。

多くの小学生が犠牲となった池田小学校事件ですが、なんと「逃げた教師がいる」との説があります。

事件の概要から犯人の宅間守の人間性や生い立ち等を紹介するとともに、事件にかかわることとなった方々の現在を調査しました。

  1. 池田小学校事件の概要は?
    1. 犯人の宅間守が起こした無差別殺傷事件で児童8名が死亡
    2. たった10分間の出来事、教室は血の海に…
    3. 教師2名に取り押さえられ警察へ引き渡し…23名の犠牲者が
    4. トイレに隠れ難を逃れた児童も
    5. 各界から追悼が…中には宇多田ヒカルの追悼ソングも
  2. 池田小学校事件が発生した時に逃げた教師は本当にいた?
    1. 襲われる生徒よりも通報を優先
    2. 通報するのに時間がかかりすぎではと批判が集まる
    3. 「逃げた教師」のレッテルに耐えられず精神を病んでいる?
    4. 池田小学校事件の逃げた教師の現在
  3. 池田小学校の犯人の現在は?死刑執行が完了している?
    1. 2004年9月早期死刑執行
    2. 反省の色なし…最後の言葉がひどすぎる
    3. 池田小学校事件の犯人が事件を起こした理由とは?
    4. 幼少期から繰り返された問題行動
    5. 宅間守の家庭と人間形成
    6. 母が精神崩壊との噂も?
    7. 兄が自殺した?
    8. 病院の窓から飛び降りた?
    9. 獄中結婚を含む5度の結婚歴
  4. 池田小学校事件被害者の今…20年たった今何を思うのか
    1. 生き残った当時のクラスメイトは今
    2. 今でも悲しみが続く被害者遺族
    3. 守れた命があったのではと苦しむ教師
    4. 事件を風化させず安全対策を講じていくしかない
  5. 【2024最新】池田小学校事件が今議論されているのはなぜ?
  6. 池田小学校事件を忘れてはいけない!

池田小学校事件の概要は?

池田小学校事件は2001年6月8日に宅間守(たくままもる)が起こした悲劇です。

ちょうど2時間目の授業が終わりに差し掛かったその時に、事件は起きました。

まずは池田小学校事件の概要について解説します。

犯人の宅間守が起こした無差別殺傷事件で児童8名が死亡

池田小学校事件では、教師・児童を含む23人を刃物で刺し、そのうち8名が亡くなっています。

凄惨なことに、死亡した8名全員が児童。

多くの人間が被害に遭う凄惨な事件となったこの事件ですが、宅間守は特定の誰かを狙ったわけではなく、そこにいた児童を無差別に刺したり切り付けたりしたといいます。

まだ6~8歳という幼い命が身勝手に奪われたこの事件は、多くの子供たちのトラウマを抱かせる衝撃過ぎるものでした。

たった10分間の出来事、教室は血の海に…

犯行は10時5分ごろから25分ごろまでの10分間に行われました。

教師が植物への水やり等で教室を空けていたり、廊下を移動する生徒たちがいたりする中での犯行だったために被害が拡大してしまったと言われています。

宅間守は10時5分頃にビニールに包んだ出刃包丁を持って開いていた東門から校舎に侵入。

教師とすれ違うも怪しまれず、授業が終わっていた南校舎一階の教室へ侵入し、折り紙をしていた女子児童5名を力任せに刺す。うち児童4名が死亡児童1名が重症

宅間守はテラスを通り2年西組へ移動。この移動中にトイレで順番を待ちしていた児童が髪を引っぱられて首の右側を切られて死亡

宅間守は2年西組の教室の後ろのドアから侵入し、ドア付近の児童の背中を手当たり次第に刺していく。授業をしていた女性教師は「逃げて」と叫んで避難を促すと、自身も廊下へ逃げて警察に通報する。
2年西組では逃げ遅れた児童2名が死亡、児童6名が重症を負う。

10時15分頃、宅間守は再びテラスを使い2年東組へ移動。児童たちの叫び声を聞いて駆け付けた2年東組の男性教師と1年南組の男性教師がもみ合いになり、1年南組の教師の腹部が刺される。2年東組の男性教師が椅子で宅間守に応戦すると、宅間守は逃走。逃げる際に児童2名を刺して重傷を与える。

宅間守はテラスへ逃げ、反対側の1年南組に向かう。2年東組の教師が追いかけるも1年南組では児童1名が死亡、児童3名が重症を負う。

10時20分頃、1年南組に副校長が駆け付け、2年南組の教師と共に宅間守を取り押さえる。

犯行後は、教室は文字通り血の海になってしまったといわれています。

逃げようとしたけれど恐怖で腰が抜けてしまった生徒の背中を執拗に3度も切り付ける等、息をのむほど残虐な行為に、日本全土が騒然となりました。

教師2名に取り押さえられ警察へ引き渡し…23名の犠牲者が

宅間守は2年東組の男性教師と駆けつけた副校長と格闘になりましたが、手を押さえつけられると大人しくなり、男性教員と副校長によって取り押さえられることになりました。

取り押さえられた際に、なんと宅間は「あーしんど」と呟いたそうです。

こうして宅間は警察に引き渡されることになりましたが、事件発生から警察の到着が遅れてしまったことも、この事件の被害が拡大した要因の1つだと言われています。

トイレに隠れ難を逃れた児童も

事件が起こったのが休憩時間中だったこともあって、トイレ休憩に行っている児童もいました。

ある児童はトイレから出ようとしたときに、教師から

「トイレから出るな!鍵をかけて中に入ってろ!」

と言う声を聞き、トイレに隠れて難を逃れたそうです。

かたや、トイレ待ちをしていた児童の中には首を切られて亡くなってしまった子もいたため、教師の切磋の機転で命を救われた子どもも多かったと考えられます。

ただ、トイレに逃げたことで生き残った生徒たちも精神的に大きなダメージを受けてしまった生徒が多かったというのは言うまでもありません。

各界から追悼が…中には宇多田ヒカルの追悼ソングも

この8名もの幼い命が絶たれてしまうという凄惨な事件に、各界からいくつもの追悼がありました。

事件の2日後に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップの日本対フランス戦で黙祷がおこなわれました。

また歌手の宇多田ヒカルさんは池田小学校事件を追悼する曲「FINAL DISTANCE」を作曲しました。

これは池田小事件で亡くなった女子児童・山下玲奈ちゃんが宇多田ヒカルに憧れていたことがきっかけのようです。

池田小学校事件が発生した時に逃げた教師は本当にいた?

池田小学校事件で教師がいたにも関わらず、最も被害が大きかった2年西組の教室。

事件後、その教室で授業していた当時20代後半の女性教師・I先生に世間の批判が集中します。

彼女は一体なぜ批判されることになってしまったのでしょうか?

襲われる生徒よりも通報を優先

その理由が、彼女は襲われる生徒を前に何もせず、1人で逃げたというもの。

確かに、事件中に「逃げて」と生徒たちに叫び、自身も教室を飛び出しています。

宅間守は教室の後ろ側から侵入しているので、反対側の教壇に立っている先生は最初の方に教室を出たのかもしれませんね。

途中にケガをしている生徒がいてもそのまま急いで通り過ぎたというのが「逃げた教師」と後ろ指を指されている所以です。

しかし、実際はI先生は逃げたというわけではなく、警察に通報するために職員室へ急いでいたのだそう。

立ち向かった男性教師によって被害が抑えられた他の教室もあったことから、か弱い女性であったとしても怒りの矛先を向けてしまうというのはわからなくもありません。

ただ、パニックになって動けなくなってしまってもおかしくない中で、よく通報をするという手段を思いついて動けたと個人的には思います。

生徒に避難するよう呼び掛けている様子も見て取れるため、「1人で逃げた教師」というわけではないのは間違いありませんよね。

通報するのに時間がかかりすぎではと批判が集まる

I先生が「逃げた教師」と非難されるのは、I先生の通報までが事件発生から7分と時間がかかりすぎていたことが原因のようです。

実際に近くのスーパーに逃げ込んだ児童による通報の方が早く(事件発生から5分後)、それをもとに警察が動いたと言われています。

そのため、I先生が「通報するために急いでいた」というのは言い訳で、本当は犯人が怖くて生徒を放って逃げていたのでは、と疑われたというわけです。

通報の遅れから警察の初動も遅く被害が拡大してしまうことになりましたが、この通報時間がかかりすぎているというのも、きちんと事情があるようです。

運悪くI先生が通報した電話は、6月という時期もあって経験の浅い新米警官に繋がることになり、事情を話すのに8分も要したのだというのです。

それが本当なら、非難されるべきは警察だと思いますが…。

後日、遺族が警察に通報内容の開示を求めるも、拒否されることになり、警察への不信感が高まりました。

しかし、仮にI先生が本当は逃げていたとしても、パニック状態の時に適切な判断ができる人がどれだけいるでしょうか?

少なくとも被害者である彼女に対する「逃げた教師」という非難が激しすぎたのは間違いありません。

「逃げた教師」のレッテルに耐えられず精神を病んでいる?

I先生は被害者の1人ですが、上記のように「教師なのに生徒を見捨てた」「逃げた教師」とかなり社会的なバッシングを受けることになってしまいました。

さらに悪いことに、通常被害者の情報は公開されることはありませんが、情報化社会の闇によってインターネット上に本名まで晒されることになってしまいました。

大事な生徒を失ってしまったことや命の危険にさらされたことだけでも精神的な負担は相当だと推測されますが、このような仕打ちまで受けることになってしまったI先生の心労は計り知れません。

I先生は事件の半年後に

「本当に申し訳なくて、悔やんでも悔やみきれません」
「教師なのに子供達を守ってあげられず、子供達・遺族・保護者の方には本当に申し訳ないことをしました。なんとお詫びすればよいか、言葉が見つかりません。」

とその胸中を語っています。

また、「生きていて良いのか悩んだのは1回2回ではありませんでした」というような言葉も吐露されていて、精神的にかなりまいってしまっていたのが察せられます。

池田小学校事件の逃げた教師の現在

I先生はこの凄惨な事件の後、教師を退職しています。

大阪教育大学出身で生徒からの評判もいい教師だったという彼女。

本来ならキャリアを積んで多くの子どもたちに夢や希望を与えていただろうと思うだけに、残念でなりません。

I先生が現在どうしているのかは不明で、インターネット上では自殺したという話まで浮上しています。

しかし、あくまで悪いのは事件を起こした犯人の宅間守で、「逃げた教師」とレッテルを貼られた先生ではありませんよね。

事実もはっきりとわかっていない中で報道やインターネットに口コミを投稿する第3者達が1人の人間を追い詰めてしまったことは、忘れてはならないことだと思います。

池田小学校の犯人の現在は?死刑執行が完了している?

宅間守は裁判で死刑となりました。

裁判の初公判では反省しているような素振りをみせたり、精神病を装ったりしていたものの、警察に演技を指摘されると、それ以降は一転して遺族に対して謝罪の言葉や反省などは見られなくなりました

犯人・宅間守について説明していきます。

2004年9月早期死刑執行

宅間守は2004年9月14日に絞首刑で処刑されました。

死刑確定からわずか一年足らずで死刑執行となりました。

確定から一年未満での死刑執行は異例の早さで、戦後の混乱期を除くと史上最速の死刑執行だったようです。

なるべく早く死刑が執行されるのを宅間守自身も望んでいました。

反省の色なし…最後の言葉がひどすぎる

宅間は法廷内でさまざまな暴言を吐いており、遺族への配慮は全くありませんでした。

小学校を襲った理由を聞かれて、

「世の中に不条理さをわからせたかった」
「世の中勉強だけちゃうぞ、と一撃与えたかった」
「事件を起こした後でも全く満足していない」
といった発言をしています。
また死刑執行が確定したあとの最後の言葉は
「死んでくれてありがとう」
「あの世でもお前らの子ども追いかけまわしてしばき倒したるからな」
との耳を疑うような信じられない言葉の数々だったそうです。

池田小学校事件の犯人が事件を起こした理由とは?


本当に同じ人間のすることかと疑うような非道を極めた言動の宅間守。

そもそも、どうして宅間守は池田小学校事件を起こそうと思ったのでしょうか?

そのきっかけは宅間守が3人目の妻と離婚したことだったと言われています。

300万円以上の借金を抱えた宅間守は、「自分の人生がうまくいかないのは元妻のせい」と3人目の妻を殺そうと画策します。

しかし、その妻の所在が分からなかったことから「自分が大量殺人することで元妻を後悔させられる上に、他人も巻き込んで苦しませられる」と計画の方向を変えることになります。

運悪く池田小学校がターゲットになってしまったのは、本人がエリート校を受験したくても受験できなかった過去に理由があるようです。

また「小学校なら簡単に殺害できると思った」「幼稚園ならもっと簡単だった」と最低な発言もしています。

最後の言葉からもですが、事情聴取でも宅間守は「たくさん殺せば確実に死刑になると思った」と語っていることから、自殺願望がありそれに子どもたちを巻き込んだものと考えられます。

幼少期から繰り返された問題行動

宅間守は幼少期から問題行動が多かったようです。

小学校から中学校にかけて、自分より弱い者を徹底的にいじめていたと言います。

猫や犬を新聞紙に巻いて火をつけるといった動物虐待や友人や母親に頻繁に暴力を振るう等、少し聞いただけでもぞっとします。

宅間守は暴力行為が明らかになったことで高校を中退し、その後工業高校や定時制高校に入りなおすもすべて退学しています。

その後自身の夢であった航空自衛隊に入隊しましたが、少女に対して強姦未遂があったことから除隊。

その後も幾度と職を変えるものの、薬物混入や暴力、故意の交通事故等の問題行為によって逮捕されることを繰り返し、どれも長続きはしなかったようです。

宅間守の家庭と人間形成

子どものころから暴力行為を繰り返していた宅間守ですが、どのような家庭で育ったのでしょうか?

宅間守の先祖は薩摩藩の下級武士だったといいます。

そのせいか宅間の父親はとても厳しい人だったようで、「真の侍たれ」と躾(しつけ)ていたようです。

その反面、父親は生活費を入れず酒浸りになり、刃物を振り回して家族に暴力を振るう等の問題行動も起こしていたそう。

それでは母親は、というと宅間守を身ごもった時から「これはあかん」と愛情が持てなかったようで、中学受験をする際にも「お前なんて生まれなければよかった」という暴言を吐いていたといいます。

宅間守はこういった虐待やネグレクトを受けて育ったとされていて、人格形成に大きな影を落としてしまったことが推測されます。

母が精神崩壊との噂も?

ネグレクトをしていた宅間守の母親ですが、父親や宅間守からの度重なる暴力によって、池田小学校事件の前には心を病んでしまっています。

暴力や強姦のような問題行為を繰り返した宅間守の逮捕歴は、池田小学校事件の前までで15回もありますから、その度に心がすさんでしまうのも無理はありませんよね。

そして、池田小学校事件の後精神病院へ入院し、2016年に亡くなったそうです。

兄が自殺した?


7歳上の兄もまた、弟の問題行動に精神を病んでしまったようで、1999年3月、42歳の若さで首を吊って自殺しています。

2020年に亡くなった宅間守の父親は兄の自殺について、生前「離婚や仕事も長続きせずに転々としたことから厭世で自殺したのでは」と話していました。

宅間守の自殺願望は、この兄の自殺の影響もあったのかもしれませんね。

病院の窓から飛び降りた?

池田小学校事件の逮捕時に精神疾患の演技をしていた宅間守ですが、実は精神疾患を偽装しようとしていたのはこれがはじめてではありません

1984年に再犯した強姦事件後に自ら精神科の病院を訪れて入院し、精神疾患を偽装しようとしています。

後に強姦事件がバレて服役することになりますが、宅間守はこの精神病院の5階から飛び降りるという事件を起こします。

宅間守は「両親への嫌がらせのための飛び降りだった」と話していたそうですが、周りの迷惑を考えるつもりは毛頭ないようですね。

獄中結婚を含む5度の結婚歴

宅間は生涯で5度の結婚をしており、最後の5度目の結婚は獄中結婚でした。

1〜4度目の結婚相手とは、いずれも宅間の家庭内暴力や強姦事件を理由に離婚しています。

宅間守は自衛隊を除隊した時も精神病院から飛び降りた時も、その原因は強姦。

事件後に鑑定医に語った話によると、「好きだった女の子の弁当に精液をかけたことがある」といっていたこともあるということですから、ストーカー的な側面もあったのではないかと考えられます。

5人目の妻は死刑廃止運動家の女性で、文通をするうちに仲が深まったようです。

宅間守の父の話から、処刑された遺体はこの5番目の妻が引き取ったのだそう。

これだけ多くの人を不幸のどん底に突き落としておきながら自分は結婚するなんて、と思ってしまうのは私の心が狭いからでしょうか?

池田小学校事件被害者の今…20年たった今何を思うのか

20年以上が経った今なお想起することが多い池田小事件。

きっと当事者たちの傷はきっと今も癒えることなく残っていることでしょう。

当時小学生だった被害者たちや教師、遺族はどうしているのでしょうか。

生き残った当時のクラスメイトは今

事件は生き残った人々、その保護者、教師たちの心に暗い影を落とすこととなりました。

生き残った児童の中には「フラッシュバック」や「PTSD」、生き残ったことに罪悪感を持ってしまう「サバイバーズギルト」などの症状が出たそうです。

目の前で友達が死んだり、見知らぬ男にいきなり襲われる経験をしたのですから、当然でしょう。

それでも、当時小学生だった子どもたちは必死に前を向き、それぞれの道を歩んでいるようです。

池田小学校の事件を受けて小児科の医師になったという人もいれば、その事件の後に勇気づけてくれたガンバ大阪に就職したスタッフやIT企業等一般企業に勤めている人もいるようです。

池田小学校事件という凄惨なで道を見出した子どもたちは、本当に強いですね。

当時の子どもたちのうちメディアに出ているのはほんの一握りですが、当時の事件の傷に負けずに頑張っていてほしいですね。

今でも悲しみが続く被害者遺族

我が子を亡くした遺族の悲しみが消えることはありません

娘の優希さんを失った本郷由美子さんは今でも優希さんの死を考えると押しつぶされそうになることがあるとのこと。

しかし、すこしでも前を向いて生きていこうと決め、学童クラブで働くことを決めたそうです。

本郷由美子さんのインタビューはこちらから。

本郷優希さんの父親・紀宏さんも、産経ニュースの取材に応じて苦しい胸のうちを明かしています。

守れた命があったのではと苦しむ教師

事件のことで後悔の念を持っている教師はI先生だけではありません。

当時池田小学校に勤めていた先生たちは今でも後悔の念を抱えています。

「救える命があったかもしれない」という想いは消えることなく残り続けるでしょう。

下記動画は当時1年の担任教師だった小林弘典先生がテレビの取材に応じている様子です。

彼は現在池田市立北豊島小学校の校長を務めていて、自身の経験から「学校の安全対策」を徹底し、現場の教員や児童に常に危機意識を持つ必要性を説いていると言います。

事件を風化させず安全対策を講じていくしかない

この事件をきっかけに全国の学校の防犯意識が高まるようになりました。

校門等の出入り口はしっかりと施錠し、部外者の立ち入りは原則禁止で入る場合には証明書が必要になりました。

また児童たちも防犯ブザーを常備するようになり、近隣住民や保護者らも児童を見守れるよう「安全ステーション」のようないつでも子供たちが駆け込んでこれる場所を設置するようになりました。

凄惨な池田小学校事件ですが、残念なことに時間は巻き戻すことができません。

教訓として未来の子どもたちの安全確保に活かしていくほかないのです。

池田小学校は現在校舎も変わり、高い塀に囲まれるようになったといいます。

また、下記Xにあるように防犯訓練にも余念がなくかなり高い安全意識のもと運営されているようです。

【2024最新】池田小学校事件が今議論されているのはなぜ?

池田小学校事件は20年以上前の事件ですが、よく話題に上がっています。

その理由は大きく2つ。

  • 類似事件があったから
  • 学校の地域開放の声が高まっているから

学校が安全性を高める努力をしているものの、やはり弱い子どもを襲う事件が残念ながら後を絶ちません。

2019年にはカリタス小学校事件が、2021年には中学校を襲う事件が起こりました。

特に、2021年の中学校が襲われた事件では、犯人が高校生であった事や事前に猫を殺す動物虐待があった疑いがある等池田小学校事件を想起させるものが多かったことが印象的でした。

また、学校の地域開放については「学校図書館を地域住民も使えるように」との動きがあります。

その否定派が用いる理由の中に池田小学校事件があるようです。

「外部の人の来校が増えればそれだけリスクが増える」ということを危惧しているようです。

また、こういった犯罪の特徴が、神戸連続児童殺人事件の少年A、酒鬼薔薇聖斗と似ているとも話題になっています。

少年A・酒鬼薔薇聖斗の現在についてはこちらをご覧ください。

池田小学校事件を忘れてはいけない!

20年以上の時が流れてなお、癒えることのない悲惨な事件「池田小学校事件」。

犯罪史に例のないほどの大量殺人事件で、犯人の供述もすべて遺族や被害者をあざ笑うかのようなものでした。

被害を受けた児童たちや報道により人生を狂わされてしまったI先生のことを思うと、とてもではないですが忘れることはできません。

ただ、今私たちにできることは事件を風化させずに後世に伝えていき、より良い安全対策を講じることだけ

最後になりますが、亡くなられた児童の皆様のご冥福をお祈りしております。